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長時間労働は当たり前ではない

長時間労働は当たり前ではない

 少年の頃を思い出す。1950年代、今のように塾通いも無かったし、毎日、草野球や、缶蹴り、模型飛行機で過ごしていた。夕方になって、「カラスが鳴くからかーえろ」と、子どもたちは夕日に照らされて家路に付いたものである。我が家の夕食は6時からに決まっていた。遊びすぎて帰宅が6時よりも遅れると、遅れた分だけ夕食お預けで座禅を組まされるルールになっていた。父は元禅坊主だったからこんな変なルールができたのだ。

 6時からの夕食は必ず一家全員揃ってのものだった。つまり父親は必ずそれまでに帰宅していたのである。職業は医者だったから決して特別に暇な職種ではない。我が家に限らず御近所も夕方には父親の姿があった。薪を割ったり、風呂の水汲みをしたり、それぞれの家で、父親の家事もあった。

 昨今、6時までに帰宅できるサラリーマンは殆どいない様に見受けられる。8時、9時まで働く残業がが当たり前のようになって来ている。実際、残業手当を含めてやっと通常の給料と考えることが多い。しかし、これは決して当たり前ではない。もともと、日本国憲法の下では8時間労働が当たり前の権利だったのだ。

 60年代の高度経済成長以来、日本は豊かになって来たという。賃金は上がり、自動車やエアコンといった嘗ては一部の金持ちしか手に入らなかった物品も多くの人が手にするようになった。しかし、その代償として支払ったものは何だったろうか?

 豊かな暮らしを求める人々が、残業手当を目当てに長時間労働を始めた。労働力も商品であり、需要と供給でその水準が決まる。多くの人が進んで長時間労働をすると、結局、労働力市場は時間単価で言えば長時間労働しないと生活が維持できない水準に落ち着いて行く。長時間労働が当たり前になり、大切な一家団欒の時を失ってしまった。

 そして近年言われていることは、こうして長時間労働を当たり前にしただけでなく、さらにこの賃金が下がるということだ。嘗て、一家に一人働けば生活を支えられた。今では、だんだんに、共稼ぎが多くなってきた。確かに2人で働けばかなり豊かに暮らせる。しかし、良く考えてみると、これで一家の労働時間は倍になったわけだ。先に述べた様に労働力も商品である。需要と供給でその水準が決まる。共稼ぎが当たり前に成れば賃金の水準は共稼ぎでやっと暮らせるような水準に落ち着くのである。すでにワーキングプアと呼ばれる人たちの賃金はその水準になって来ている。

 過去を思い出そう。日本人は8時間労働を当たり前としていた。夕方には父親が家に帰っているのが当たり前だったのである。この事実を忘れてはならない。日本人はもっと労働時間にこだわってもいいはずだ。
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テーマ : 雑記 - ジャンル : 日記

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