歴史と善悪

 「南京大虐殺はなかった」とか「満州国は中国のため」とか、復古調の右翼的論調がかなり蔓延している。このような人たちはいくら事実を突きつけられても見ようとはせず、「正義の日本人がそんなことをするはずが無い」とひたすら信じるのみだから、まともな論争にもならない。バブル崩壊後に落ち目となった日本の国力に落胆し、昔の夢を追いたい気持ちの現れであるが、これらがある程度受け入れられる素地は判断の基準を失い「善悪」を単純に「強弱」に置き換えてしまうところにある。
 
 歴史を表層で見てしまうと「勝てば官軍」としか考えられない。どのような姑息な手段を使っても、政権が出来て長続きすれば建国の父になる。政権獲得を争いとしか見ず、社会の発展からの必然性に目を向けなければ確かにそう見える。とどのつまりは15年戦争で日本が「悪」とされるのは戦争に負けたからだと、本気で考えてしまう。

 大虐殺をやったのは日本ばかりではない、アレキサンダー大王の遠征は大虐殺の連続だった。中国との戦争はお互い様だ。フビライの遠征軍が博多湾に攻め入ったのは高々800年前のことだし、第二次世界大戦の連合国だって、植民地を持っていた。だから、日本のアジア侵略は、特段非難されるべきことではない。............と、いうわけだ。

 歴史に善悪を考える時、重要なことは人類の進歩という概念である。 昔、腕力の強い者が王と称して、他人から税を取り立ててもなんら不思議はなかったが、今それを行えば強盗でしかない。古代に奴隷制はあたりまえであったが、今それを行えば、気違い沙汰だろう。人類は進歩しているのである。こうした人類の進歩に追いつけず、古い倫理基準に固執していることが、歴史において悪と非難されるものなのだ。

 過去においては阿片貿易も「正当な商行為」として認められていたが、今ならだれしも悪と判定を下すだろう。空を覆う煤煙は頼もしい工業近代化の象徴であったが、今では公害の元凶とされる。善悪の基準は変化しているが、これは、ご都合主義でころころと評価が変わるといったことではない。人類がそれだけ進歩した結果として、高い倫理性が要求されてきたのである。現在「正当な商行為」として許されている武器の輸出や、開発途上国に飢餓をもたらすかもしれぬ食料の大量輸入も、人類社会が発展すれば極悪非道の非難を受ける日が来るだろう。

 第一次世界大戦が帝国主義諸国間の争いでしかなかったのに対して、第二次世界大戦では、連合国に「露骨な侵略主義」と闘う倫理上の優位性があったことを否めない。後発の日本は、人類の趨勢がすでに露骨な侵略を認めない段階に達していたのに、まだ19世紀的な侵略を押し進めたのだ。戦争の現場でも、人類の進歩に対する感性がなかった。古代の戦争では当たり前であった「強制連行」や「従軍慰安婦の徴発」等も、人類がもはやそのような蛮行を許さない段階に進歩した時点で行ったから非難されるのである。

 遅れて国際舞台に登場した日本は、西欧の古い基準に学び、新しい進歩を受け入れることに失敗した。民主主義の時代となっても、絶対主義天皇制を保持したままで、神の国としての使命を果たすべく戦争に邁進した。これを悪でないと考えるのは、やはり無理だ。だからこのような過去を悔後をもって振り返ることは自虐でもなんでもない。人類の進歩を見つめ、国のモラルを考えて行く上で必要なことなのである。しっかりと歴史を見つめ、日本国憲法で日本が獲得した倫理性の優位を失わず、人類の先進部分としての日本をぜひ築きたいものである。

テーマ : 歴史雑学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

日本国憲法の成り立ち

日本国は1947年5月3日に施行された日本国憲法に基づき、以来60年以上に渡り存続している国家である。日本列島にはそれ以前にも大日本帝国があり、別の憲法に基づいていた。大日本帝国憲法は1890年に施行され、57年間だけ続いて終わった。

今日の目で見れば、大日本帝国憲法は憲法としての体を成さない粗雑なものと見える。憲法というのは法律作りの法律であり、権力を持つものが勝手に法律を作ることを規制するものである。ところが、大日本帝国憲法ではどんな法律も作り放題で、憲法自体は天皇の命令がなければ改正も提起出来ない代物だ。内閣や総理大臣の規定もなく、教育については何も記述がない。軍部の独走を許す統帥権条項などは大日本帝国を自滅させる欠陥であったとも言える。憲法の重要な役割りは為政者が何を目標として国民のために努力するかを示すことなのだが、そんなものはどこにも見当たらない。だから、極右派の人でさえ、日本国憲法を変えることを主張しても、帝国憲法にもどせなどとは言わないのだ。

大日本帝国憲法は伊藤博文の主導で極めて政治的に作られた。参考にしたと言うプロシア憲法でさえ、もう少し権力を分散させているが、なんでも大権にしてしまう考え方は、「玉」を手にした方が勝ちという、明治維新クーデターの思想を色濃く残していると見ることもできる。幼少の睦仁天皇を手中に入れた薩長が、大政奉還後も最大の勢力であった徳川を始めとする公武合体派を駆逐した手法も、これなら正当化されるからである。井上毅が実務を担当したとされているが、伊藤が書簡で「忠実無二の者」と評しているように、伊藤の秘書に過ぎず、起草も伊藤の別荘で行われたくらいだから、伊藤の主導は動かない。伊藤は長州藩の足軽だったから、一応松下村塾に通ったりしたが、教育も十分でなく、老練な政治家ではあったが、法律には素人でしかない。法律としての完成度を求めるのが無理というものだ。

これに対して日本国憲法は見事な体系性を持っており、法律条文としてははるかに完成度の高いものだ。これが、軍人の集まりに過ぎないGHQから出された草案に基づいているとは驚くしかない。民生局長ホイットニー准将は、フィリピンでゲリラ部隊を指揮して日本軍と戦った歴戦の勇士であるが、兵隊あがりだ。二等兵から准将にまで昇る経歴もすごいが、実は夜間大学に通って弁護士資格を得ているし、法学博士の学位まである法律の専門家なのだ。次長であるケーディス大佐も、ヨーロッパ戦線から東京にまわされたのだが、その理由はかれがハーバード大学出身の優秀な法学者だったからだ。当然彼らの配下には多数の法律専門家がいた。つまり、GHQ民生局は最初から新たな日本国憲法を目指して準備された法学者組織だったのだ。米軍の動員体制は、士官学校出の将校が威張り、法学者などは招集して二等兵にしかしなかった日本とは歴然とした違いがある。

第一次世界大戦は純然たる帝国主義戦争、すなわち、発達した資本主義国が植民地の利権を争って互いに争う戦争であり、戦勝国が戦敗国を裁いて、領土や利権あるいは賠償金をせしめる戦争だった。しかし、第二次世界大戦は帝国主義戦争の側面も残してはいるが、露骨な暴力主義であるファシズム勢力と民主主義勢力との闘いという側面も強かった。ソ連は第二次世界大戦を帝国主義戦争と見て、自国に侵攻したドイツ軍とは戦うが、連合国に加担はしないという冷ややかな姿勢を持っていたが、終盤では英米の説得で、この第二の側面に同意して連合国として参戦した。第二次世界大戦の終末期には、これを最後の世界戦争にしようとする平和思考を色濃く打ち出すことにもなった。カイロ選言、ポツダム宣言の頃には、戦勝国に利権の拡大や賠償金の取立てを放棄させ、原則的に領土の拡張も認めず、既存の植民地も独立させるべきであるとの方針を持つことになった。こういった連合国の理想主義的な考え方の協同が発展して国際連合が生み出された。

日本占領の根拠はポツダム宣言にある。連合国が合意して、日本に「降伏の機会を与える」として条件を示したのだ。「日本を世界征服へと導いた勢力を除去」「占領の受け入れ」「戦犯の処罰」「民主主義」「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重」「非軍備」「軍隊の無条件降伏」を条件とし、「これについては譲歩しない。執行の遅れは認めない」と言明している。日本はこれ以上の原子爆弾を含む爆撃や、ソ連の日本進攻を避けるために、ポツダム宣言を受諾するから降伏を認めてくれと頼んだ。降伏を認めるとは、現政府を日本を代表する交渉の相手方として認めるということだ。ヒットラーもムッソリーニも降伏せず、政権自体が崩壊するまで戦ったのだが、天皇ヒロヒトは降伏により生き延びる道を選んだ。

降伏を認められたのだから、その代わりにポツダム宣言の内容を忠実に実行する義務が生じたのだが、これまでの日本の国際対応からみて、とうていそんな事は考えられない。法学者を動員して、日本国憲法の制定を用意して置くべきだと考えただろう。だからGHQはそういった陣容になっている。案の定、日本政府が作った松本試案は、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのを「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」に変える程度のもので、ポツダム宣言とは程遠いものだった。民間では新しい憲法を目指していろんな案が出され、日本共産党なども憲法草案を提示していたが、松本試案には全く反映されていない。軍人は除外されたが、帝国政府の官僚をそのまま残した政府に起草させるのは所詮無理なことだろう。

GHQからいわゆるマッカーサー草案を示して議論の土台を作った。GHQから出されたとは言え、憲法草案の中身は優れた法学者により、周到に検討されたものだった。思想的底流としてはフランスの人権宣言やアメリカの独立宣言に基づいており、GHQの法学者たちは一種の理想的憲法の作成といった気持ちで起草に取り組んだように思われる。各国の憲法や、民間での草案議論などもよく研究しており、天皇崇拝が染み付いた当事の日本国民の状況も勘案して第一条で天皇を「日本国民統合の象徴」などとする工夫も凝らしている。

平和に関する条項である第9条も、パリ不戦条約の第一条「締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言スル 」を元にした文言だ。この条約には1928年に日本も加盟したのだから、満蒙問題の解決を戦争に求めた日本は明らかな条約違反だったことになる。この条約は今でも生きており、国際平和の原則となっている。

このように日本国憲法の成立には、多くのことが取り入れられ、ある意味で世界の法学的英知を結集したものだったのではないだろうか。日本国憲法の今日でも輝きを失わない格調の高さはこのことによるものだろう。

草案は急速にまとめられて行き、国会で何箇所かの修正をして、形式的には帝国憲法の改正として制定された。新しい憲法は国民の圧倒的支持を受け、国会でもほぼ全会一致で採択された。簡単に過半数で改正すべきでない重みがある制定だったことがわかる。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

予科練とは何だったのか

「今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦の 七つボタンは桜に錨」という歌はかなりの人が知っているし、多くの人が予科練を太平洋戦争の飛行士養成機関として認識している。しかし、予科練では毎日操縦訓練を行い、卒業生は飛行機乗りとなって、特攻などで、多くは、愛機と共に空に散って行ったと言う、半ばロマンチックなイメージを持っているならそれは間違っている。

予科練で本格的な飛行訓練をやった事実はないし、修了生全体の中では、戦死は8%でしかない。多くの予科練生は全く空を飛ばなかったのだ。そもそも「予科練」という学校は無かった。予科練習生というのは、海軍航空隊に所属した兵隊の身分の一つに過ぎない。階級としては、最下級の四等水兵にあたる。

日本の軍隊は将校であるところの武士が、百姓町人を集めて鉄砲を持たせた所から始まった。長州藩の奇兵隊なんかがその先駆けだ。農民や職工を徴兵して兵隊にする。一銭五厘と言われていたように、召集令状の切手代だけでいくらでも集められる。鉄砲を持たせて少し扱い方を教える。あとは上官の命令にはいつでも従うように、いじめて根性を入れればそれで良い。

絶対服従を叩き込むのが訓練であった。これには一応の理由がある。当時の戦争の勝敗を決するものは野戦兵力の突撃だった。突撃の時はなるべく早く前身したほうが、銃撃される時間が短くて被害が少ない。命を惜しんで、逡巡していると却って大きな被害を出すのだ。守る側も、阻止線を破られたら自分の命が無くなるのだから、果敢な突撃には浮き足立ってしまう。だから命令一下で命知らずの突撃が出来る軍隊が強い軍隊だった。そんなわけで日本陸軍の訓練というのは体罰・苛めで命を惜しむ気持ちを麻痺させる根性教育が中心になった。

海軍の場合は少し様相が異なる。陸軍のように兵隊を根性だけで戦わせるわけには行かない。砲術や航海術は士官のものだが、その補助にも一応の知識・経験がいる。これを担うのが古参の志願兵である下士官だった。機関学校で教育した下士官が戦争の兵力となった。一般の水兵といえば、甲板磨きや見張りといった程度の雑用しか無いのである。現場指揮官になり得ず、年功を食っても兵卒扱いされる下士官の不満の捌け口が必要だった。だからここでも、陸軍と同じような「しごき」体罰が横行した。艦船のピラミッド組織を守るためには底辺が必要だったのだ。

日本の軍隊ではこうした身分制度と「いじめ」「しごき」が組織の根幹的要素となっていた。ところが、飛行機となるとそうは行かない。上空では一人でエンジン調整から銃撃、通信など全てやらねばならないし、航空力学や電気回路の知識もいる。そう簡単にだれでも乗れるものではないのだ。乗員が少ないからピラミッド組織は作れない。航空部隊というのは軍隊組織になじまなかったのだ。初期のころは飛行機は将校の専有物で、飛行訓練を行うのは「海軍飛行学生」という兵学校出身の将校に限られていたが、1930年代になると、海軍の戦闘が爆撃機や戦闘機を多用する航空機戦術主体になってきて、飛行機を指揮官であるはずの士官の専有物としておくわけには行かなくなった。それでも、海軍は士官が威張り、下士官が水兵を苛める体制を保持するために、相変わらず航空軽視の巨艦巨砲にしがみついていたのだった。


海軍の飛行機は航空母艦から出撃するのだが、飛行機搭乗員を養成するために陸上に航空隊を作った。海軍の兵隊から選抜して「飛行練習生」あるいは「操縦練習生」として航空隊で操縦訓練をしたが、思わしくなかった。当時の一般の人たちは、もちろん飛行機に乗ったことはないし、自動車の運転もしたことがない。尋常小学校卒が普通だったから学識も足りない。ピストンやシリンダーという言葉も知らないし、エンジンなど見たことも無いのが普通だった。全く経験のないものを学ぶのは、特に年を取ってくると難しい。今でも携帯電話の使い方は高校生が一番詳しい。うんと若いときに飛行機乗りの勉強を始めたほうが良い。

そんな事で高等小学校程度の子供たちを霞ヶ浦などの航空隊に集めた。これが予科練乙種である。だから予科練という学校は無い。予科練習生というのは航空隊における身分である。その後、一般学はもう少し勉強しておいたほうが良いと言う事で、中学4年終了程度の子を集めた。これが甲種予科錬生だ。予科練はあくまでも「飛行予科」練習生であり、飛行練習生となる前の教育を受ける所だ。したがって、カリキュラムは殆どが、手旗信号とか、鉄砲の撃ち方とかの軍隊教育と数学、機関学、爆薬学、弾道学といった座学だった。それに帝国軍人精神を鍛える体育科目が加わった。体罰・苛めも相当なものだった。飛行訓練をする所ではなかったのだ。

アメリカでは航空機が増えたころから、将校をどんどん飛行機乗りに登用し、将校の枠を広げたのだが、帝国海軍では将校は指揮官であって現場で闘う兵隊ではないという観念をくずずことは無かった。海軍兵学校の飛行学生は最後まで少数に留まった。空を飛ぶ魅力につられて、予科練を志願した子どもは多く、選抜はかなりの競争となった。中学4年と5年の一年の募集時期の違いだけだったのだが、予科練はあくまでも下士官養成のためで、幹部養成の海軍兵学校とは根本的に違っていた。

海軍は、航空兵力拡充にはあくまでも消極的で、予科練にしても、太平洋戦争を仕掛けた1940年でさえ、甲乙あわせて1,190人しか採っておらず、次の年でも3,752人でしかない。パイロットの養成には時間がかることを考えれば、この人数は決定的な間違いである。アメリカでは、士官候補生16,773人に搭乗員教育を始めたし、次の年には89,973に増やしている。数が一桁違うし、しかも全員が仕官待遇だ。教育の内容も、変な軍人精神論ではなく、きっちりと科学的な知識と十分な飛行訓練に時間を取った。乗員訓練が第一の課題だとして優秀なパイロットを戦場から引き戻して教官にすることさえやった。

日本の場合は、マリアナ沖海戦やガダルカナルで熟練飛行士を失って見て初めて航空兵の不足に気が付いた。航空機は生産できても、癖の強いゼロ戦を使いこなせる熟練パイロットがいないのだ。丙種予科練生など即製のパイロットを送り込んだが技量的に太刀打ちできないことになって、たちまちのうちに、飛行機自体を消耗してしまった。

1944年になって急に予科練を114,773人に増やしている。時既に遅く、日本にはこれだけの訓練をする飛行機が無かった。それにも関わらす45年の半年でまた58,899人をいれている。これまたとんでもない大人数だ。もちろん彼等は飛行機には乗らず、一部は他の特攻兵器に乗ったが、大部分は土方仕事に使役されただけで、戦死すべくもなかった。徴兵年齢に達しない者を徴用して飛行場整備などの土方仕事をさせたにすぎない。人数的にはこうした飛ばない予科練生が圧倒的に多いので、初期の予科練生が多く戦死しているにも関わらず、全体の8%しか戦死していないという統計になるのだ。もっとも、飛行場整備が安全なわけではもちろんない。宝塚航空隊所属の第16期予科練生は鳴門海峡の要塞建設に派遣され、途中で住吉丸が銃撃されてほぼ全滅の憂き目にあった。

予科練は志願制だったが、この頃には半強制的なものでもあった。身長が足らず、不合格とわかっていても、志願して受験させられたくらいだ。航空隊も高野山宿坊や宝塚歌劇学校など宿舎さえあればどこにでも作られた。命を差し出す上では飛行機による特攻も、アンパン地雷を抱いての自爆も同じだということで訓練させられた。飛行機乗りになるという夢を抱いていた生徒は騙されたようなものだ。福岡航空隊司令の飛田健次郎大佐は、予科練生を前に「おまえたちは海軍にだまされたんだ」と謝ったという。予科練生の不満を押さえつけるように制裁・暴行はエスカレートした。「バッター」と言われるこん棒を使っての痛打などがその最たるものだった。

終戦になってからも、予科練の不運は続いた。学校でなかったことが禍いしたのだ。海軍兵学校は学歴となって、大学への入学などが認められたので戦後に要職について活躍した人が多い。しかし、予科練は学歴とは認められず、中学中退のままとなった。どこの町でも予科練帰りといえば、軍隊でいじけた不良の集まりとして鼻つまみになった。安藤昇などのヤクザはそのなれの果てだ。

生き残った予科練生は戦争の被害者であるが、予科練時代を華やかな青春時代と懐かしむ人も多い。その後の生活の辛苦からみれば、そうとでも考えざるを得ないのだろう。中には戦後苦労の末、各方面で活躍している人もいるが、それらの中に予科練を評価する人はあまりいない。前田武彦は予科練で受けた教育を「優しさなんか一つも無かった。死んでいく人間に対して棒で殴ったりしていた」と番組の中の発言で批判している。児童文学の寺村輝夫も予科練の経験者だが、「君が代はどうしても歌いたくなく、一度も歌わなかった」と語っている。

テーマ : 歴史雑学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

和気清麻呂

戦前の歴史教育では、道鏡の悪巧みを打ち破り、萬世一系の天皇家を守った忠臣として和気清麻呂の名は欠かすことのできないものだった。具体的にどうやって守ったかというと、宇佐八幡宮のお告げ、「血縁のないものは天皇になれない」を、迫害を恐れず正直に伝えたと言うことであるから、この話自体が神話でしかない。宇佐八幡宮神託事件と言われるものであるが、これでは歴史として扱い様がないから戦後の歴史教科書には名前も出てこない。

しかし、和気清麻呂という人物が実在し、神話的な業績が伝えられるほど大きな働きがあったこともまた事実の反映だろうと思われる。続日本紀には宇佐神宮の神託以外にも何度か和気清麻呂が出てくる。

もともと和気の一族は備前磐梨郡の地方豪族だった。その元をたどれば、おそらく製鉄技術を持って大陸から渡来したものたちだっただろう。秦氏と近くまた先祖神に鐸石別命とか稚鐸石別命といった石にちなんだ名前が出てくることから推察される。磐梨郡の地方豪族は七世紀になって大和族の支配が全国に及ぶとこれに従属して地方官となって行った。国司は中央から派遣されるが、郡司は土着である。平城京が出来て律令制が整って来ると地方官はその子女を釆女あるいは衛士として都に送ることが義務付けられた。磐梨別乎麻呂の娘、広虫とその弟清麻呂が都に出仕したのは七五〇年頃のことだ。

大和の国は豪族の連合体から天皇家を中心とする統一国家への変貌を見せており、行政を担当する官僚の出現が必要だった。それまでは、蘇我、物部といった有力豪族の連合体で出来ていた政権を大和朝廷が単独で支配するようになり、独自の政策を、有力部族に頼らずとも隅々まで行き渡らせることが出来る機構が必要だったのである。

清麻呂が出仕して登用されたのは兵衛という警備担当の下級職で従八位下の位階だった。文書が巧みだったので、おそらく当番表の作成とか見回りルートの設定とかの、計画管理の手腕を認められたのだろう。当時、読み書きのできる人はそう多くなかった。周到な計画性、企画力が評価され、七六五年には従六位になっている。従六位は少佐であり、衛士から番長、少志、大志、少尉、大尉を経なければならない。四年に一度の進級試験があったのだが、全部合格したとしても本来ならここまでで二〇年かかるはずだ。それを一五年で駆け上がったのだから異例の出世ではある。

孝謙上皇のお側付きとなった姉広虫の引きがあったことは十分伺える。女官の場合、位階を世襲できないのだが、試験制度はなく、気に入られれば役割りに合わせて位階が上がり、弟への配慮を天皇に頼むことも出来たはずだ。孝謙上皇も自分なりの改革を進めるために子飼いの官僚を必要としていた。具体的に何をやったかの記録はないが、藤原仲麻呂の乱があって、その後の混乱を治めるには有能な官僚が役立ったから、このときの貢献も大きかったと思われる。それまで磐梨別真人清麻呂などと呼ばれていたはずだが、このころから和気宿禰清麻呂を名乗るようになっている。

奈良時代というのは皇位をめぐって大和族内での争いが絶えず、血で血で洗う内紛の連続だった。十七条憲法も律令も、下々に与えられた法であり、天皇や有力者を規制する条項は何も無いのだから止むを得ない。政治の基本は、皇族側近や有力部族による談合であった。清麻呂が出仕したころは橘諸兄が実権を持ち、次にこれを倒した藤原仲麻呂が政権を担った。藤原仲麻呂を追放して自ら重祚して称徳天皇となった孝謙上皇がこうした政争を嫌悪し、仏教に深く帰衣して考えたことは、大和国家の形態を今で言うチベットのような祭政一致の仏教国として行くことであった。

一方で留学生や識者の間では唐に習った専制国家としていく方向が模索されていた。世襲権力を無色の官僚が支えて行くという形態だ。どちらも部族社会からの脱却ということでは一致していたが、この分岐点で清麻呂はキーパーソンとなった。

宗教国家へ大きく舵を切ろうとして、中立と見られた清麻呂たち官僚に協力を要請した。清麻呂がそれを拒否する矢面に立ったと言うことが、神託事件の実際のところではないだろうか。

道鏡と組んだ祭政一致路線を破綻させられた称徳天皇の怒りを買い、清麻呂は大隈に流された。別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられたなどとも書いてある。やがて称徳天皇の死去で、祭政一致路線は自滅した。日本にはそれほどに根付いた宗教基盤がなかったから所詮無理な体制だったと言うことだろう。清麻呂は中央に復活する。道鏡に追随した官僚を排除すると清麻呂などを復権させなければ人材を得られない。復活した和気公清麻呂は従五位となり、貴族の中に入ることになった。六位までは地下と言われる一般人である。

高官としての資格を得て、清麻呂の活躍はむしろここから始まる。播磨・備前の国司となり行政手腕を発揮した。七八六年には従四位上で摂津太夫・民部卿となり、神崎川と淀川を直結させる工事に成功した。奈良の都は大和川の堆積が進み、淀川水系から大和川への流入による氾濫が日常的となっていた。これで淀川水系の大和川への逆流を防いだのだが、同時に長岡京方面への物流路を確保することになった。流水事情が悪くなった奈良では、なんらかの解決策必要であり、その一つに長岡京への遷都が模索されていた。難波宮の資材を長岡京の造営に再利用するといったアイデアも清麻呂が提案したものだと言われている。こうした長岡京の造営への実務上の効労が桓武天皇の信頼を高めていった。

七八八年には、上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に流して、水害を防ごうとしたがこれは失敗している。九〇〇年後、中甚兵衛の新大和川工事が行われたのと同じルートであるから目の付け所は良かったが、当時の技術に台地の岩盤は固すぎたのである。しかし、むしろ延べ二三万人を投じた大工事撤収の手際よさに着目すべきだろう。こういった工事は長引いて、政権の崩壊要因となったりするのが普通だからだ。清麻呂の見極めは早かった。見事な計画性の発揮である。

河川工事で学んだことは大きく、これをもとに長岡京の建設を中止して平安京の造営を建議した。平安京は桂川と賀茂川に挟まれ、さらに南には淀川の大きな水流があるので都の中に縦横に流水を巡らすことができる。疫病対策として清水の確保は非常に重要だった。七九三年には自ら造営太夫となり建設計画を推進し七九四年に平安遷都にこぎつけた。和気朝臣清麻呂の位階も従三位になった。これは皇族でない官僚としては最高位だと言える。
それまでの政治というのは、すべからく権力闘争であり軍事だった。それ以外で功労を挙げた人はいなかったと言っても良い。和気清麻呂には民政という新しい分野を切り拓いたとという独創性がある。最下位から最高位まで民政功労で昇った事跡が後日の神話的な伝説を生み出したのだろう。

備前磐梨から中央政界に踊り出て、世襲貴族の仲間入りをしたかに見えた和気氏も、平安京で藤原氏の天下となってからは出番がなかった。しかし技術的・学術的伝統を保持した家系となり、医学薬学を担当するようになって行った。代々典薬頭などを勤めている。和気種成の「大医習業一巻」が和気医道の集大成だろう。その後、もう一つの医道家系である丹波氏と合流して半井を名乗るようになり、明治になるまで半井医道が和漢医学の中心であった。本家は半井になって、江戸に移ったが、傍系の和気氏も畿内の医道系で続いたようだ。江戸時代の百科事典「和漢三才図会」の序文は京都の和気仲安が書いている。

現在「和気」という姓は畿内全域に少しと、あとは岡山、愛媛、栃木に集中的に存在している。このうち、愛媛は讃岐国那珂郡の因支首(いなぎ・おびと)が866年に和気公の姓を賜ったことによるもので、清麻呂とは別系統になる。清麻呂が都で初めて和気を名乗ったのであるから、備前に和気氏は無かった。しかし、清麻呂の系統から、平安末期に武士となり、岡山で帰農した一族があり、児島湾の干拓を指導したことで知られる。松島村と高松村にその系図が残っている。栃木県塩谷郡玉生村にも系図があり、これによれば清麻呂の子孫、典薬頭和気葉家が、「罪なくして下野国塩谷郡に流さる」ということが栃木和気氏の祖ということになる。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

坂本龍馬異論

昨今の評価では、明治維新と言えばすなわち坂本龍馬の活躍となる。坂本龍馬は英雄視され、いかに偉大な人物であったかの逸話には事欠かない。しかし、実はこれは70年代80年代からの現象でしかない。それ以前には坂本龍馬の名前はここまで有名なものではなかった。

実際、坂本龍馬が明治維新で何をやったかというと定かではない。薩長連合を作ったのは龍馬だと言うが、薩摩長州を代表して決断したのはあくまでも木戸孝允であり、小松帯刀だったし、薩摩の藩論をまとめたのは西郷・大久保だった。長・薩・幕の3すくみになれば薩長の連合はいわば自然の成り行きでもあるし、奇想天外な発想ではない。薩長の連合を説いた人は龍馬に限らず大勢いた。

海援隊と言う組織を立ち上げたことも龍馬の事跡だが、海援隊は高々30名のもので、明治維新に果たした役割は大きくない。日本海軍へも伝統は何等引き継がれていない。幕府の海軍練習所の残党を引き連れていったものではあるが、教育組織ではなかったので人材もたいして排出していない。明治政府で役割を果たしたのは陸奥宗光くらいのものだ。

岩崎弥太郎との関連で海援隊の貿易事業の先駆性が言われるが、岩崎は海援隊員ではない。活動は短期間でたいして貿易も実績がない。いろは丸事件に至っては、積荷が無かったことが沈没船の引き揚げでわかり、和歌山藩から賠償金を取った事は詐欺でしかなかったことが最近明らかになっている。

坂本龍馬の思想が先見的だったことも言われるが、特に著作があるわけではなく影響を与えるものではなかった。「船中八策」と言われる伝聞があるが、出典は明らかではない。自筆で書かれたものは「新政府綱領八策」というもので、もっと簡略な政策事項の羅列に過ぎない。その内容も特に画期的なものとも言えない。当時の人なら誰でも似たようなものを挙げたにちがいない。

実際、横井小楠も「国是三論」「国是七条」「国是十二条」を書いているし、その内容は似ている。「船中八策」が五箇条の御誓文の元になったと言われるが根拠はない。御誓文の作者は由里公正である。由里は横井小楠の弟子だからそちらの影響が強いだろう。船中八策も横井小楠の影響を受けただけのものかも知れない。龍馬が乙女姉に書いた手紙の「日本を今一度洗濯いたしたく候」という文言は有名だが、実はこれも横井小楠の受け売りなのだ。

新政府を立ち上げたのは、天皇が顧問(議定)や議員(参与)を定めて議論で決する小御所会議だが、このやり方は船中八策どおりだ。しかし、これは岩倉・大久保の合作で彼等が船中八策を読んだわけではないだろう。当時の情勢としてはこうでなくては前に進めなかったから、誰しも同じ事を考えたのだ。船中八策を読んだかもしれない山内容堂や後藤象二郎などの土佐閥は会議には参加したが蚊帳の外におかれていた。「かもしれない」と言うのは船中八策には原本がなく、後出しで明治元年の「藩論」の中で引用されているだけだからだ。

坂本龍馬は下役の出身で少年時代は特に目立たなかったし、成長した後にはすぐに脱藩してしまったのだから、土佐に殆ど影響力がなかった。岩崎弥太郎とは死ぬ間際まで面識が無かったし、板垣退助も龍馬とはすれ違いだった。龍馬亡き後を引き継いだかに言われる後藤象二郎との関係も、手紙を見れば龍馬は後藤を「先生」と呼び、後藤は龍馬に「君」と書いている。子弟は全く逆である。

だから坂本龍馬は素浪人としてあちこち渡り歩き、放言しただけと言われても仕方がなく、明治時代には、今では誰も評価しない、高山彦九郎や蒲生君平と同じ扱いになっていた。当時、脱藩して諸国を遍歴しながら尊皇攘夷をアジって廻った浪人は沢山いたのである。明治政府は勲功により龍馬家督の相続を認めたが石高は15人扶持という評価だった。

明治初期の維新三傑論では西郷、木戸、勝を挙げており、坂本龍馬を入れて四傑にしろなどといった異論も無く定着した。山脇之人の十傑論も明治17年に出版されていて江藤新平、横井平四郎、大村益次郎 、小松帯刀、前原一誠、広沢兵助、岩倉具視 を三傑に加えているがこれにも坂本龍馬は入っていない。やはり異論はなかったようで、その後これで定着した。

十傑は明治になるまで生き残って元勲として明治政府で活躍した人に限られているのだから、暗殺されてしまった龍馬が除外されているという解釈もあるが、龍馬が暗殺されたのは大政奉還の後だし、横井小楠も龍馬以前に蟄居させられ、明治になって出仕した途端に暗殺されて政府では何もしていない。坂本龍馬が本当に重要な人物ならそんな切り分けはやらないだろう。

横井小楠の方は人物として評価が高かったことがわかる。勝海舟は龍馬を評価していたことで知られるが、弟子の一人としか見ていない。勝が『氷川清話』に「俺は恐ろしいものを2度見たことがある」として西郷隆盛と横井小楠に会ったことを挙げている。西郷が幕府をも倒すほどの実力者であり恐ろしいのはわかるとして、一介の思想家に過ぎない横井小楠が恐ろしいとは、ひたすらその思想の影響力にある。坂本龍馬はそれほどでもなかったと言うことだ。

忘れ去られた名前である坂本龍馬が復活したのは日露戦争の時の事だ。薩長に頭を抑えられ、何かにつけて割を食っていた土佐閥には、坂本が生きていたならなどという思いが根強く残った。宮内大臣だった田中光顕が昭憲皇太后のバルチック艦隊撃破を予言した夢を坂本龍馬に結びつけて宣伝したのだ。

以来、龍馬の名前は少し知られるようになり、いろんな本にも登場するようになった。真山青果が戯曲『坂本竜馬』も書いた。しかし、知名度はまだまだ低く、大方の人の明治維新は三傑、十傑の活躍で占められていた。大仏次郎の鞍馬天狗40巻は映画にもなり大衆に広まった。このお話には近藤勇、桂小五郎、西郷隆盛、伊藤俊輔、井上聞多、あるいは横井小楠など実在の人物が数多く出てくるが、坂本龍馬は出てこない。

今のような龍馬像が浮き上がったのはひとえに司馬遼太郎の「竜馬が行く」がベストセラーになって、鞍馬天狗の明治維新観が覆されてからだ。根底には明治維新のとらえ方の転換があった。明治維新を主導したのは王政復古の勤皇運動だったのだが、それでは現代から見た意味合いがあまりにも空虚で、どの物語も主人公が命を掛ける意義に乏しくなってしまう。そのため、明治維新をむしろ近代化改革として捉えたいという願望があるのだ。単なる尊王論者を超えた明治維新人格を期待され、司馬遼太郎の創作がこれに合致したのである。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

民族独立と太平洋戦争

人類に大災害をもたらした第二次世界大戦を積極的に評価しようとする謬論が再び勢いをつけている。その俗論の一つに日本の南方進出によってアジア・アフリカ諸国の独立がもたらされたと言うものがある。

一般的には、遅れて西洋文明を取り入れながら、経済発展を果たした日本に対する評価は高く、アジアアフリカ諸国にとってこれは励ましになるものではある。しかし、これは戦争中の占領に限定してまで評価されると言うことにはならない。俗論の信奉者は欧米の支配と戦うアジアの国日本の姿が独立運動の契機になり、日本と関係が薄いアフリカの独立運動まで日本の戦争のおかげとまで言うのだ。

アジア・アフリカの独立運動はもっと早く、第一次世界大戦の時代まで遡る。ガンジーがインドで不服従運動を展開しだしたのは1920年であり、有名な「塩の行進」も1930年に行われている。ビルマでも運動が進み1939年には自治領になった。インドネシアでもスカルノたちが国民党を結成したのは1927年である。エジプト、イラン、イラク、サウジアラビア、アフガニスタンが独立したのも30年代である。孫文や金日成の自立運動も30年代からあるが日本はこれに敵対した。これらはすべて日本の南方進出以前のことである。

確かに日本の占領中に独立した国もある。フィリピン、ラオス、ビルマ、カンボジア、ベトナムがそれだ。しかし、植民地を他国から奪う場合、一旦独立させるのは帝国主義の常套手段である。オスマントルコからエジプトを独立させその後イギリスが植民地にした。メキシコからテキサスを独立させてその後アメリカが併合した。日清戦争の名目は朝鮮独立だったが結局日本が併合した。満州国を中国から独立させたのは日本の支配化に置くために他ならなかった。形式的に独立をさせても、やがては自国の支配下に置くための一歩に過ぎない場合が多い。

ベトナムは日本軍が支配してパオ・ダイに「ベトナム帝国」を作らせたが傀儡でしかなかった。日本軍の徴発により200万人が餓死する事態に対してホーチミンたちはベトミンゲリラを組織し、日本が敗北するとともに蜂起してベトナム共和国の独立を宣言して再支配しようとするフランスと戦った。「ベトナム帝国」は日本軍と共に消えてしまったのでベトナムの独立とは関係がない

日本軍がフランスから独立させたラオス王国は傀儡のようなものだったので敗戦で独立宣言を撤回し、その後ベトナムと対抗させるためにフランスにより、また独立させられた。両国ともラオスの建国を援助したとはいえない。独立運動は共産ゲリラ化してその後もラオス政局が安定しない基を作った。

フィリピンは1934年に自治領となり、10年後に完全独立する法案が成立していたから、すでに独立は目前だった。1943年に日本軍が上陸して1年早く独立させたことになるが、形式的に過ぎず、実際には日本軍の軍政のもとに置かれた。軍票乱発による経済混乱がフィリピンの民衆を苦しめ、独立運動はゲリラ化して日本軍と戦った。戦後、アメリカが新たな政府を独立させ、その政府が続いているが今もゲリラとの抗争は続いている。

ビルマではアウンサンたちが日本軍に期待してイギリスと戦ったが、日本軍は真の独立をいやがり、バーモーに傀儡政府を作らせた。アウンサンのビルマ国軍は傀儡政権に対して反乱を起こし、逆にイギリス軍に協力した。ビルマでの日本軍は宴会に明け暮れる腐敗のあげくインパールに手を伸ばして崩壊した。敗戦とともに首脳が日本に亡命してビルマ国はなくなった。イギリス軍と協力して日本軍と戦った勢力が戦後も独立運動を続け、1948年になって独立を果たしたのが今のミャンマーになっており、日本の作った傀儡政権であるビルマ国とは全く関係がない。

インドネシアはスカルノたちが日本軍と協力して民衆を組織したのでその後の独立と日本の統治が一応つながっているが、日本統治中は独立させずインドネシア人に強制労働を強いてロームシャなどという言葉が残った。結局インドネシアの独立は戦後になってからである。独立を認めないオランダとの抗争に日本軍の武器が使われたり、数千人と言われる日本軍の残留兵が独立運動を助けたりしたが、これは軍の命令に背いた個人の行動であり戦争政策とは関係が無い。

カンボジアは日本軍がインドシナに進攻した機会を捉えてシアヌーク王が独立を宣言したが国民運動を基礎にしたものではなかった。だから、ロン・ノルが軍事クーデターを起こし、クメールルージュがゲリラ戦を展開してロン・ノル政権を倒し、ポル・ポト政権の極端な農本主義を経て王国に復帰しているという複雑な経緯をたどり、日本軍が建国達成に寄与したとはいえない。

いずれの国々も、日本軍のおかげで幸せな独立を果たしたといえる物ではなく、もとからあった独立運動に日本軍の支配介入が重なっただけである。もちろん戦後15年たってアフリカ諸国の独立が相次いだ時にこれらの国々に習ったわけでもない。アフリカ年と言われる1960年当時、東南アジアの国々はアフリカが見習うような状態ではなかった。

独立背景に寄与するのは国連の成立とその援助が大きい。1949年に国連が「世界人権宣言」を採択して植民地支配が不当であると認め、1960年に「植民地独立付与宣言」が採択されると植民地の独立を否定することは何処の国も出来なくなった。日本軍の戦争がこれらの宣言と何のかかわりも無いことは自明だろう。

日本がアジアにありながら、西洋文明を取り入れて独自の経済発展をとげたことは多く賞賛されており、アジア・アフリカの国々で評価が高いし、日本に対して好意的でもある。しかし、それは日本の侵略を正当化するものでは全く無い。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

間宮林蔵は密告者だったのか

間宮林蔵が間宮海峡を発見した1809年からおおよそで200年になる。いくつかの記念行事もあったようだが、業績については疑念も残るし、シーボルト事件に関して間宮林蔵の人格を疑う意見も強い。。しかし、鎖国日本で他に探検家とよべる人物はおらず、当代一の探検家であることに間違いはない。彼が偉人であったかどうかはともかく、人物像として大変面白いものを感じる。

間宮林蔵は常陸国筑波郡上平柳村で生れた百姓のせがれである。寺子屋で学び、幼い時から秀才ぶりを発揮して神童とも言われた。13歳のとき村人に連れられて筑波山に詣てたが、其の時夜を徹して「立身出世」を祈願したという。天下泰平の文政期にあって当時は、「分をわきまえる」ことが美徳とされ、百姓の子どもが侍になろうとするなど普通には考えも浮かばないことだった。「立身出世」を夢見る百姓少年は周りの大人からも確かに驚きだっただろう。この逸話が今日残っているのはそのためだ。

子貝川の改修工事に来た幕府の役人に秀才ぶりをアピールし、江戸への同行を認められ「立身出世」の糸口をつかんだ。このあたりの売り込み方は野口英世と似ている。江戸に旅立つ前に間宮家を捨てて、狸淵村の名主飯沼甚兵衛の養子になった。家格も欲しかったし、勉学のための資金も必要だっただろう。間宮家は従兄弟が継いだ。だからほんとうは間宮ではなく飯沼姓のはずである。しかし後年、士分に取り立てられた時、間宮を名乗っているから、飯沼家は一時的に利用されただけである。百姓生れは、これくらいのしたたかさが無いことには立身出世はおぼつかない。

頭の回転が良くて、出世のためにはなんでもする男。これは使える。幕府は当時蝦夷地への侵略を企てていた。アイヌの土地である蝦夷をねらっていたのは幕府ばかりではない。ロシア帝国も着々と南下を進めていた。北方領土の測量は権益確保のために急務だっただろう。林蔵は測量・探検の仕事にその才覚を見込まれるようになっていった。測量・探検は決して学術的なものではなくあくまでも軍事的な事業であり、測量は諜報活動の一部であったから、幕府はこれに様々な密偵を投入した。侍は気位が高く、労働、金銭勘定も嫌がった。まして密偵などという武士道に反する仕事は毛嫌いされた。 だから林蔵のような百姓出身のものがこのような分野で重宝されたのである。

江戸でどのように暮らしたかは定かではないが村上島之允に算術や普請術を学んだ。おそらく、理解の速さは師匠を驚かすに十分だっただろう。20歳になって、村上島之允が蝦夷地に派遣された時に従者としてこれに従った。そして蝦夷地で地図測量の第一人者伊能忠敬の知遇を得た。学べるならばだれかれでも学ぶ、利用できるものは何でも利用する。林蔵は伊能忠敬の測量器を安く買い取ることに成功した。伊能も根っからの武士ではなく商家の出身である。林蔵の測量技術は高度な緯度測定も伊能忠敬に学んだものである。測量技術で普請役雇として士分の末端に取り立てられた。東蝦夷地、南千島の測量に従事した。

間宮林蔵の最大の功績である樺太探検は、最初松田伝十郎の従者として参加した事で起こった。松田が主導したラッカ岬までの測量で、樺太が島であることがほぼ推察されるようになった。林蔵は、願い出て今度は単独でその先ナニヲーまで測量して樺太が島であることを確認した。さらに、土地のオロッコ族が大陸に朝貢するのに同行し、樺太の向こうが中国大陸であることを確認した。鎖国日本で大陸に渡るようなスタンドプレーは随分思い切った行動である。またこの行動には単に命令で出かけただけでない探険家としての熱意も感じられる。

43歳で蝦夷地の測量も終わり、探検家としての仕事からは引退した。まだ石高取りには至らないが「普請役」として低い身分ではあるが参拾俵3人扶持の一応はっきりと侍と言える地位についた。仕事は引き続き諜報活動であるから密偵である。かなり変装がうまく、時には乞食に身をやつして全国を廻った。詳細は秘匿されているが東北、伊豆などで鎖国体制を脅かす状況の調査を行ったとされている。

林蔵は測量技術の習得には熱心であった。通商を求めるロシアの使節ゴローニン少佐が松前藩に捕らえられたと聞けば、経度観測の技術を聞き出しに行った。フィッセルの日本風俗備考にこの様子が書いてあるが、林蔵は非常に饒舌でゴローニンの気を引く測量図などを見せながら、何日も通い、しつこく聞き出したようだ。

シーボルトにも近づき、測量技術を習得しようとした。おそらく、いろいろと探検の話をして、禁制の日本地図なども見せたことだろう。シーボルトは林蔵を信用して幾つかの品を送った。保身に聡い林蔵はこれを幕府に密告したのである。もちろん、密偵を稼業としている林蔵には密告の結果がどうなるかも判っていたはずだ。このため、シーボルトは追放を受け、鳴滝塾は閉鎖されたし、高橋景保は獄死した。高橋も林蔵の師匠に当たる人だ。

シーボルトは「たとえ密告者であるとしてもその功績を無視することはできない」として樺太の海峡に間宮の名をつけて報告した。このシーボルトの立派な態度は林蔵の立場をさらに悪くしただろう。シーボルトを慕う弟子たちは林蔵を裏切り者として大いに非難した。林蔵が幕府密偵であることは知識人の間に知れ渡り、フィッセルなども林蔵が長崎の出島に現われただけで、次の犠牲者を思い、引き起こした恐怖を記述している。

武士道に基づく信義が重んじられた時代には林蔵の評価は高くなりようが無かった。評判の悪い林蔵が再び持ち上げられるようになったのは、明治になって日本の対外侵略が盛んになってからである。1855年の下田条約で日本人の進出がまったく無かったにもかかわらず、樺太の帰属が未定とされたことには林蔵により海峡が発見されたことが大きな重みとなっている。その後千島樺太交換条約で樺太はロシア領となったが再び南半を占領したりしたのも、間宮海峡を名目に出来たからだ。林蔵の貢献度は大日本帝国にとって重要なものだったのだ。

領土問題では探検家の業績がものを言うが、間宮林蔵は密偵だったからこそ探検の目的を理解していたと言える。最上徳内はエトロフを最初に探検した日本人だが、「ロシア人がすでに住み着いている」という報告だから正直すぎて領土問題では使えない。今も政府には評価されていない。しかし、政府の都合は変わることがある。林蔵が石見藩の密貿易を隠密調査したことは、竹島処分つまり、「朝鮮人が自由に行き来している竹島は日本領でないから渡航することはまかりならぬ」という処置につながり、鎖国政策には役立ったのだが、今となってはこの記録が竹島が韓国領であることの裏づけとなってしまっている。

間宮林蔵を偉人として顕彰するのはたいがいにした方がいい。弱点もあり、批判もあり、それを全部含めた上で、十分魅力的な人物だ。士農工商の封建制度に人々が縛り付けられていた今から200年前の時代を精一杯生きた人物として評価しできる。あの時代、才能はあっても百姓の家に生れたら、林蔵以上の生き方はあり得なかっただろう。

テーマ : 歴史雑学 - ジャンル : 学問・文化・芸術