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特攻隊の真実
特攻隊の真実
「君のためにこそ死ににいく」は石原都知事がプロデュースした特攻隊映画だが僕はこのタイトルを見て、昔学徒兵だった先生と話した時のことを思い出した。あの馬鹿げた戦争に多くの人々が抵抗なく駆り立てられて行ったことが不思議で、「本当に天皇陛下のために死ぬ気だったんですか?」と聞いてみた。「いや、大学生は天皇とかお国のためで死ぬ気になるほど単純じゃない。しかし、日本全体が危機に瀕していて国民同胞のためには死ぬことも必要だという考えにはコロリと丸め込まれてしまったのだよ。」と言うのが先生の答えだった。
最近の愛国心宣伝の手口はこれに近づいている。文科省の「心のノート」は田舎の風景や、隣人、郷土への愛着を持ち出し巧みに「国家」への「愛」に導く。阿部前首相が提唱した「美しい国日本」もこういったすりかえを狙ったものだ。死にに行く若者の悲しみを描いているこの映画は戦争賛美の映画ではないという弁護もがあるが、もちろん世の中に戦争賛美の映画などと言うものはない。戦争そのものが「平和のため」に行われているくらいだ。戦争賛美ではなく「君のため」と、すりかえイデオロギーを注入する所がこの映画の悪質な意図だろう。
「コロリと丸め込まれ」たのだが、よく考えてみれば「死にに行く」ことはちっとも「君のため」にはならなかった。もはや戦局は敗色濃厚であり、特攻隊は少しでも有利な講和を得ようとしてのことだった。「有利」とは誰のためのものだったのか。講和を有利にして、強大な軍部を温存したかったのか、帝国天皇制を続けたかったのか、婦人参政権は無いままにしたかったのか、財閥は解体せずに経済を支配させたかったのか、不在地主による小作制度を温存したかったのか、華族・平民などと言う身分制度を残したかったのか。もちろん「君のため」ではあり得ない。
石原に限らず、すりかえイデオロギーと若者の死のロマンチシズムを結び付けた特攻隊信奉者は結構いるものだ。神風特攻隊は評判の悪い自爆テロとは違うと主張して止まない。特攻隊は軍事施設を目指したものだからテロではないなどと言っても9.11では一機は米国防総省に突っ込んだわけで、もちろん参謀本部ペンタゴンは軍事施設だ。こういった人たちはあまりにも特攻隊の真実を知らない。
別件でGHQ文書を調べていて驚いたのは旧日本軍が保持していた麻薬の分量である。GHQが処置に頭を悩ませるほど大量の麻薬を保持していて、特攻隊には麻薬を使わせていたのである。特攻隊のパイロットは麻薬で異常な興奮状態にさせられて、自爆テロに出撃したわけだ。冷静に考えれば自爆テロなんか馬鹿馬鹿しくてやっておれない。
なぜ特攻隊自爆テロが馬鹿馬鹿しいかと言えば、まず、命中率が低いことで、人が操縦しているから必ず当たると思えば大間違いだ。飛行機というのは翼があり、その設計が難しいことでもわかるように少し狂えば、空気力学的に軌道がそれてしまう。上空から急降下したとしても、目標艦船からは雨霰のごとく弾丸が飛んでくる。目標に近づけば近づくほど弾には当たりやすくなり、全く弾を受けずに突っ込むことはあり得ない。パイロットに当たらずとも、翼の端に当たっただけでも軌道がそれ、結果的にはほとんどの特攻機は海に突っ込んでしまった。大岡昇平が調べた特攻の成功率は7%である。
通常の艦船攻撃では多数の攻撃機を用意して敵弾を分散させることで飛行機側の被弾確率を下げる。被弾確率が下がれば、それだけ敵艦船に近づけるので爆弾の命中確率も上がる。米軍では100機200機という多数の攻撃機を集中して戦艦大和のような重装備の艦船もたいして犠牲を払わずに沈めてしまった。特攻隊の場合、数機だけで出撃するのだから大量の防空砲火が集注し被弾確率が極めて高いのも当然である。
さらに馬鹿馬鹿しいのは、うまく命中したとしてもその威力が大きくない事だ。爆弾を落とせば、速度はsqrt(2*g*h)で 600mの高さからだと重力だけでも時速400kmになるのだが、これが急降下の速度に加算される。ところが飛行機につけたままだと翼が邪魔になってとてもそんなスピードは出ない。九九式軽爆の最高速度は250km/hでしかない。空中で爆弾がはじけて、破片が飛び散っても軍艦は沈まない。軍艦の装甲を破壊するには突っ込む速度が大切なのだ。
威力の小さい特攻で効果を上げるためには爆弾を大きくする他ない。最初250キロ爆弾を積んで行ったのだが500キロとか750キロを積むようになり、重たくてヨタヨタと敵艦に近づくことになったのだから、またまた成功率は下がってしまう。
ところが日本軍の記録では特攻の命中率は高いことになっている。特攻攻撃の成果を見届ける偵察機は撃ち落されては困るので、もちろん敵艦船にはあまり近づけない。よく見えないから、つい贔屓目の報告をしてしまう。場合によっては戦友の無駄死にを報告するに忍びなく「空母轟沈」などと誇大な報告もしてしまう。台湾沖海戦の成果などはほとんど架空のものだったことが知られている。こういった誇大報告に基づいて特攻攻撃が有効なものとされてしまい、全機特攻などという方針が決められた。
最初の神風特攻隊である関大尉の敷島隊は5機で、米機動部隊主力に攻撃をかけ、その成果は2機が空母に突入して轟沈させ1機が別の空母に大火災を起こし、他の1機が巡洋艦を轟沈し、打ち落とされたのは1機ということになっている。これが事実なら大成果と言えるが、実のところ攻撃対象は機動部隊主力ではなく輸送空母船団つまり、輸送船に飛行甲板を取り付けて航空機を積めるようにしたものの集まりに過ぎなかった。
後の特攻とは異なり、レイテ沖海戦で米主力が手を取られている隙を突いての攻撃だったので途中で敵戦闘機の迎撃に出会うこともなく目標艦船に到達出来たのだが、ファンショウベイに向かった2機は打ち落とされたし、ホワイトプレーンズに向かった1機は艦橋をかすめたが被弾して海上で爆発した。キトカンベイでは1機が甲板に接触したが、海に落ちた。つまり、精鋭を選んだ最初の特攻でも5機の内4機は不成功だったわけだ。
しかし最後の1機は、セイントローに突っ込み改造輸送船の飛行甲板を打ち破った。丁度そこが弾薬庫になっていたために引火して大爆発で、セイントローは沈没してしまった。輸送空母ではあったがともかくも空母が沈没したことは米軍も認めた。誇大報告ではあったが後のものに比べればまだ謙虚なもので、一応実質的成果はあったことになる。大本営発表では何隻も撃沈させているのだが、実は「空母を沈没させる」ことは真珠湾でも果たせなかった(注)日本海軍の夢であった。この偶然的な成果がその後の「全機特攻」に至らしめる契機になったことは間違いない。
結果的には熟練のパイロットを多く失い、日本のパイロットは技量的にも下手糞な即製パイロットばかりになり通常航空戦でも米軍に歯が立たなくなってしまった。実は技量の高い操縦士の場合、挑飛爆撃と言う特攻なんかより遥かに有効な手段があり、万朶隊の佐々木伍長などは特攻に出撃しながら、何度も戦果を挙げて生還した。初期の特攻では司令官がさんざ特攻訓練をさせた挙句に、責任逃れに「各自が最も効果的と判断する攻撃方法を取れ」と訓示してしまったことを逆手に取ったわけだ。なんとか敵艦まで飛べるだけの即製操縦士が特攻に出かけても、それは自爆テロにさえ至らぬ単なる自殺でしかなかった。これが特攻隊の真実である。
「死にに行く」のはちっとも「君のため」ならなかったばかりか戦争にさえ役立たなかった。特攻で全く成果があがらなくなった後期では、やたら「記念日」の出撃が多い。もはや戦果などどうでもよく、出撃させることで闘っているというポーズを取ったにすぎない。高級軍人の単なる面子のために死んだ隊員ほど気の毒なものはない。発案者の大西中将が隊員の亡霊に悩まされ、終戦の日に自殺してしまったのも、まあ当然のことだ。
(注)ホーネット、レキシントンなどは修復不能にまで破壊されて処分されたが轟沈ではない。ヨークタウンは航空戦ではなく潜水艦の魚雷攻撃で沈んだ。
テーマ : 政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル : 政治・経済
日清戦争・成歓の闘い
「キグチコヘイハ、シンデモクチカラ、ラッパヲハナシマセンデシタ」は戦前の修身教科書で教え込まれた有名なフレーズである。戦争へ国民を駆り立てたものではあるが、言わんとするところは職務遂行への執念なので、戦後も結構使われてきた。教科書で教えられたりしなかったが、親から伝え聞いているのだ。ミャンマーで亡くなった報道写真家長井健司さんも「死んでもカメラを放しませんでした」と褒め称えられたりする。これに便乗して、つくる会のアナクロ教科書では木口小平を復活させたりしている。ただし、喇叭を「死んでも手から離しませんでした」では単なる死後硬直でしかない。この教科書を作っている人たちのいい加減さが知れると言うものだ。
そんなわけで、ネット上にも昨今は木口小平に関するブログなどが見つけられる。多くは戦前教科書の引き写しで、日清戦争の数々の戦闘を勇敢に喇叭を吹きながら戦って戦友を励ましていた喇叭手が、ある日弾に当たって倒れ、それでも必死で喇叭を吹きつづけ、音が途絶えたことに気づいたら、すでに彼はこときれていた。と、いうような記述になっている。ネットの面白いところは情報が入りやすいことで、こういったブログにも、もともと白神源次郎の話だったものが、木口小平に訂正されたと書いてある場合が多い。顔つきが似ていて間違えられたとか、同じ日に喇叭手が二人いたから間違いが起こったとかもっともらしい理由も書いてある。
問題はここで、「間違いが訂正された」となると喇叭手の話は、嘘か本当かどうでもよい単なるお話ではなくて、史実であることになる。兵卒に与えられているのは村田銃に付け剣した長さ2mもある銃剣だ。命がけの敵兵を相手に、喇叭を吹きながら片手で振り回せるものではない。死んだのは成歓だから、日清戦争は実はまだ始まっていない。召集されてすぐの戦死だから全軍を励ますなんてことはできない。おまけに闇夜の午前3時だし、部隊は死体をそのままにして其の日は元山まで休むまもなく敵を追撃していったはずだ。突込みどころ満載のお話ではあるが、「白神源次郎と思われていたが木口小平であることがわかった」というと、このお話が事実であり誰かが確認したことになる。
いったい事実はどのようなものだったのか。少なくとも、名前を変える経緯があったはずだから調べれば何かわかってくるかもしれない。そんなことで、木口小平をキーワードにして日清戦争を調べてみた。防衛省防衛研究所が所有している当時の極秘資料である戦闘詳報などが公開されているからかなりのことがわかる。結果的には白神源次郎は喇叭を持っていなかったし、溺死で美談の主に適当でなかったから木口小平に切り替えることにしたと言うことだが、成歓の戦いが実際にどのようなものであったかが大体わかってきた。喇叭手美談については前に書いたから、ここでは成歓の闘いに焦点をあてて事実を探求してみよう。
日清戦争は1894年8月1日に始まり、翌年4月17日に終わった日本と清国の戦争である。明治維新で中国、朝鮮より一足早く近代化を成し遂げた日本は、早速西洋国家の後追いで対外進出を始めた。明治維新早々に征韓論というのがあって、朝鮮に攻め込むことが議論されたが、結局は政府内部でまとまらず、逆に国内で分裂して、西南戦争を始めてしまった。それがこんどは「朝鮮の独立を守るために清国と戦う」などと言うことになった。宣戦布告文の草案が何種類かあって其の中には「清国及び朝鮮国に対して宣戦を布告する」なんてのもあるくらいだから実にいい加減な理由付けだ。
そのころ朝鮮では東学党の農民一揆があちこちに起こり政情不安であった。朝鮮は清国に援助を求めた。清国は朝鮮の「宗主国」を自認しており朝鮮に問題が起これば軍が駆けつける安保条約のようなもので結ばれていた。ところがこの状況に対して、清国軍では日本人の安全は守れないとして、(例によって)在留邦人の保護という理由をつけて日本も清国を上回る大軍を朝鮮に派遣してしまった。広島にあった第5師団に大島義昌が率いる混成旅団が編成され、これに広島11連隊と岡山21連隊が属した。木口小平も白神源次郎も21連隊の兵卒である。
広島は、山陽鉄道が開通して広島までの鉄道が使える様になったので、兵器・兵員の集中拠点として大変都合がよかった。広島から宇品港を出て朝鮮半島に出撃することも出来る。日本軍は在留日本人が多い仁川に上陸したのだがそのまま京城まで行ってしまった。朝鮮王宮に押し入り、朝鮮軍を武装解除して国王を捕虜にしたのだからこれは日朝戦争と言っても良いが、抵抗が少なかったので華々しい戦闘にはならなかった。それでも1等卒早山岩吉が戦死しているし韓国側にも戦死者が出ている。捕虜にした国王に「清国軍を追っ払って欲しい」と言わせて、これで清国に対する宣戦布告の理由が出来た。宣戦布告文案からは「及び朝鮮国」が抜けた。
大義名分が出来たのが7月23日、7月25日には清国が日本に対抗して増援兵を送るために英国からチャーターした輸送船を襲っていきなり千人以上を殺してしまった。日本軍は真珠湾でもそうっだったが、不意打ちを食らわすのが得意の戦術で、思いっきりひっぱたいておいてから、「喧嘩だ。さあかかってこい。」と叫ぶのである。豊島沖海戦と呼ばれる輸送船襲撃事件は、まだ宣戦布告も出していない時点だから実に乱暴な話だといえる。沈む輸送船から投げ出された千名の清国兵を助けず皆殺しにしてまったのは残虐行為だが、当時のいい加減な国際法には違反していないそうだ。
清国軍は京城に攻め込むというようなあつかましいことは出来ずに京城のかなり南にある牙山を本拠に農民一揆の討伐を行っていた。増援軍は皆殺しにしてしまったから、当面は数的にも日本軍が有利である。早期の開戦が望ましい。日本としてはまず牙山の清国軍を叩こうと言うことで混成旅団が南下した。23日の王宮占拠から25日の豊島沖海戦、29日の成歓の戦いまでの実に素早い動きは充分に計算された計画に基づくものであったことがうかがい知れる。
素早い動きが出来た理由の一つは、もうひとつの日本の得意技、「補給をしない」と言うことである。太平洋戦争では補給のことをよく考えていなかったために負けたようなことを言うが、実際はよく考えた上で補給はしないことにしたのである。大島旅団からの補給の要請に対して、答えた大本営の6月29日の訓令はそれを明確に述べている。補給隊を送れば、その補給隊の食料まで送らなくてはならなくなり、きりが無い、戦争と言うのは補給無しで身軽にして始めて戦えるものだ。補給の要請なんてとんでもない。もうこれからはこんなことを言って来るな。そんな事をあからさまに書いている。というわけで、食料や馬は原則現地調達つまり略奪でやることになった。確かに理屈は通っている。登山隊のことを考えれば、ほとんどの人員はベースキャンプから第一、第二キャンプへの補給隊になっている。山頂へのアタック2人に対して50人からの登山隊を組織する。まともに補給すれば50人中2人しか戦わないことになるのだ。逆に言えば古来、遠征軍とか侵略軍とかは全て略奪でやって来たということだ。日本軍はこれを徴発と言っているが、徴発とは強制的に入手することで値段は買い手が勝手に決める。値段をゼロにすれば強盗である。
補給を徴発でまかなうと言うのも実は楽ではない。それはそうだ。だれだって略奪されるのは好きではない。当然、現地の人は軍隊を見れば逃げ出すし、食物は隠す。馬なんかを取られたら農耕も出来なくなるから大変だ。徴発された人足は当然隙を見て逃げ出す。木口小平も白神源次郎も、第3大隊に入っており、隊長は古志正綱少佐であった。生真面目な人で上層部の信用も厚かったので、旅団が苦労して略奪した50頭ばかりの馬と人足をこの第3大隊で預かっていた。ところが牙山に向かって進軍し始めて3日目の夜、この馬と人足に荷物ごと逃げられてしまった。そのため混成旅団は食料不足に陥ってしまった。参謀長長岡外史に怒られた古志少佐は責任を感じて自殺してしまう。これが日本軍戦死の実質二人目であるがもちろん公式には戦死とはなっていない。木口たちは大隊長不在のまま戦場に赴くのである。この混乱が第三大隊の兵士たちに無残な死に方が生れた遠因とも考えられる。
混成旅団の戦闘詳報によれば、7月28日は素砂場で野営し、7月29日早朝2時に牙山に向けて出発した。宣戦布告はまだだが、情況はもう開戦したも同じで、清国兵はおそらく牙山の手前に進出して来ていて明け方に成歓あたりで衝突することが予想された。連日雨が降り続いていたので、道は糠り、闇夜の行軍である。安城渡で河を渡り、ここから成歓までは田圃の中の細い一本道となる。いくらなんでも敵が山峡の要害で待ち受ける成歓まで、この細い道を縦列になって歩いて行く手はない。旅団は二手に分かれ、主力左翼隊は山伝いに東に迂回して成歓の東から攻撃する。右翼隊は陽動作戦でそのまま街道を進んで成歓の西に出るということになった。白神たちの第3大隊は右翼隊で、先頭は松崎直臣大尉が率いる第12中隊。後に続くのが10中隊と9中隊、第7中隊で、工兵中隊や衛生隊が後尾になった。おそらく木口は第12中隊、白神は第9中隊にいたと思われる。報告に出てくるのは将校ばかりで兵卒については所属すらなかなか明らかにできない。
20分ほど歩いて秋八里の手前600mの所まで来た。「キリン洞」と書いているが「佳龍里(キョロン)」だろう。雲の切れ目に弦月が出てうっすらと物が見えるようになった。前方30メートルのところに家が何軒かあり、そこに清国軍の「師」旗が2本見えた。と思ったら急に家の蔭から射撃が始まった。猛烈な射撃でおそらく400人からの軍勢だと判断したと報告しているが、戦闘詳報は必ず敵を多く報告するものだ。小屋の後ろに隠れるくらいだから実際には200人くらいだっただろう。清国軍の突然の射撃に反撃する形で戦闘が始まったとしている。木口小平はおそらくこの一斉射撃で死んだのではなかろうか。喇叭を吹く余裕はなかった。中隊長の松崎大尉もこの時死んだだろう。松崎大尉は日清戦争の戦死第一号ということもあって、その戦死は美化されて大々的に語られている。突撃してサーベルで切りまくったことになっているが、それではこの突然の一斉射撃とつじつまがあわない。戦死第一号はこの200丁以上の銃による30mの至近距離からの一斉射撃によるものと考えるしかないからだ。
第12中隊は道路から田圃に飛び降りて左側散開して伏せた。後続の中隊もそれぞれに田圃の中に入って泥まみれで散開して前方の家屋に向かって射撃しながら突撃の体制を準備した。第7中隊と第10中隊の一部は右側に回って射撃した。3時45分、突撃命令で600人が一斉に襲い掛かった。このとき進軍喇叭が鳴り響いたことは従軍した新聞記者が記録している。部隊が突撃すると清国軍はかなわぬと見て背走した。暗くて敵味方入り混じった状態では追い討ちの射撃も充分には出来なかった。一応は敵を追い払ったのだから日本軍の勝利ではある。しかし、清国側の記録では、逃げる日本軍を水構に追い落して打撃を与えて、さっと引き揚げたと言うことになっている。
この「水構に追い落として」と言うところは日本側の記録にも出てくる。21連隊の戦闘詳報にも時山中尉以下24人が溺死した書いてあるが詳しい情況は書いてない。いくつかの通俗本ではもう少し詳しく説明してある。当日は闇夜であり、泥まみれで突撃の際、増水した田圃は渕との区別がつかなかった。第7中隊の時山少尉は第7中隊と第10中隊の1分隊づつ計23人を率いて右翼側から突撃する命令を受けたが、そこは運悪く渕になっており、深みにはまって全員が沈んでしまったと言う。重い装備を背負って、泥沼に踏み込んでしまったのだから泳ぎ様も無い。当初の報告では時山中尉は行方不明で、溺死の事実は隠されていたが、正式な報告でははっきりと溺死と記述している。これには、敵の死体を数えたら将校1と兵卒20でしかなかったことがからんでいる。この日の日本軍の損害は合計35名だから溺死の24名を除外しないと清国軍より大きな損害となる。結局、佳龍里で戦死は将校1兵卒5で日本軍の勝利が正式報告と言うことになった。激戦と言われるにしてはあまりにも少ない損害と驚かざるを得ない。
通俗本の溺死状況をはじめ、よく言われている成歓戦の様子は疑わしいところがかなりある。「時山中尉が第7中隊と第10中隊の2分隊を率いて」と言うのも実に妙だ。時山中尉は第3大隊第7中隊の第1小隊長で、配下に5分隊70名ばかりを指揮しているのである。戦闘のさなかに自分の小隊の1分隊だけと全く別の大隊の1分隊を率いて行動するわけが無いだろう。戦闘詳報にある「第7中隊の1分隊と第10中隊の1分隊を右翼に増強し」を勝手に時山中尉に結びつけたものだろう。屍体検案書が残っている溺死者は2人だけだが二人とも第9中隊だ。一方、野戦病院の記録からは第12中隊3人第10中隊3人第7中隊1人がこの日全体の戦死者になっている。第9中隊は戦死の記録がなく、死亡15名だからほぼ全員が溺死である。結局、時山中尉とあと7人の第7中隊員と第9中隊の15人が溺死したことになるが、これは別段時山中尉に率いられての特別の行動ではないだろう。白神源次郎は第9中隊だから溺死したものの1人と考えられる。
ではどのようにして溺死することになったのだろうか。軍の記録以外にも一次資料はあって、大阪毎日新聞の高木利太、東京日日新聞の黒田甲子郎がこの日従軍している。二人とも進軍喇叭の響きを文章に伝えているが、喇叭手のことについては何も触れていない。これからも喇叭手美談が現場で生まれたものではなく、内地で作られたものであることがわかる。注目されるのは黒田甲子郎の記事で「一部は少く背進し瀦水中に陥りたる兵士十数名は最も憐なる態にて退き来るを以ってここは畢竟枝隊の敗戦と見受けられたり」とあるから、戦闘詳報には一言も書いてないが、日本軍が一時的にせよ「背進」つまり逃げたことは確かだろう。清国側の記録の通り、逃げる時に水溝に落ちたのかあるいは、攻撃の時に落ちたのかのどちらかだろう。
水死体を実況見分した報告書によれば17体を発見した場所は安城川の支流につながる水構で、佳龍里からは北に400mほども離れている。だから、「突撃」で落ちるには少し遠すぎる場所だ。行軍隊列が長くなって、戦闘が始まった時点では9中隊7中隊はまだ川を越えずにいたとも考えられるが、工兵隊、衛生隊が渡河して川堤に布陣したのだから、これらの中隊はもっと前進位置になければならないし、実際10中隊7中隊の分隊は右翼へ回って射撃している。つまり、ここの地形としては退却する以外に水構に落ちることは出来ないのである。
さらなる疑問は緒戦の部分にもある。清国軍は堂々と「師」の旗2本を掲げているのだから「伏兵」はないだろう。そもそも、佳龍里の集落は成歓街道からは100mも離れている。ただまっすぐ行軍していたのでは30mの距離には近づけない。清国軍は単に野営していたのではないか。まだ宣戦布告前で開戦はしていないし、真夜中の三時だ。「師」の旗2本を見て、日本軍はこっそり近づいて寝込みを襲おうとしたのではないだろうか。街道からはずれ30mまで近づいたところで清国軍は日本軍の襲来に気づき、あわてて撃ってきた。こう考えないと30mの至近距離から待ち伏せしていた400名が一斉射撃したことになり、先鋒の12中隊で戦死者が僅かに4名しかいないのは説明がつかない。
計画的な一斉射撃ではなかったがかなり猛烈な射撃と思われたので、日本軍も慌てて一旦は逃げた。なにしろこれまで一度も本格的な戦闘を経験したことのない兵隊たちだ。先頭部隊である12中隊が攻撃を受け、続く10中隊も浮き足立った。まだ川堤から遠くないところにいた7中隊、9中隊は、慌ててばらばらに逃げようとして一部が転落した。これが9中隊7中隊にまたがって溺死者が出た理由だ。しかし、清国軍は追ってこなかったし、日本軍の軍勢は倍以上あり、優勢なので体制を整えて反撃することにした。日本軍が再び前進すると清国軍は撤退していった。...というのが本当のところではなかろうか。突撃したと言う日本軍の本隊では戦死者が殆ど出ていない。最初の射撃戦以外に清国軍の攻撃はあまりなかったとすると12中隊の戦死者4名はやはり最初の射撃の時のものに限られる。攻撃を受けた第12中隊第1分隊の木口小平は、弾丸が心臓を貫く即死で、進軍喇叭を吹く前に死んだ。進軍喇叭を吹いたのは12中隊にいたあと二人の喇叭手北田文太郎か奥津友太郎だと言うことになる。
そんなわけで、ネット上にも昨今は木口小平に関するブログなどが見つけられる。多くは戦前教科書の引き写しで、日清戦争の数々の戦闘を勇敢に喇叭を吹きながら戦って戦友を励ましていた喇叭手が、ある日弾に当たって倒れ、それでも必死で喇叭を吹きつづけ、音が途絶えたことに気づいたら、すでに彼はこときれていた。と、いうような記述になっている。ネットの面白いところは情報が入りやすいことで、こういったブログにも、もともと白神源次郎の話だったものが、木口小平に訂正されたと書いてある場合が多い。顔つきが似ていて間違えられたとか、同じ日に喇叭手が二人いたから間違いが起こったとかもっともらしい理由も書いてある。
問題はここで、「間違いが訂正された」となると喇叭手の話は、嘘か本当かどうでもよい単なるお話ではなくて、史実であることになる。兵卒に与えられているのは村田銃に付け剣した長さ2mもある銃剣だ。命がけの敵兵を相手に、喇叭を吹きながら片手で振り回せるものではない。死んだのは成歓だから、日清戦争は実はまだ始まっていない。召集されてすぐの戦死だから全軍を励ますなんてことはできない。おまけに闇夜の午前3時だし、部隊は死体をそのままにして其の日は元山まで休むまもなく敵を追撃していったはずだ。突込みどころ満載のお話ではあるが、「白神源次郎と思われていたが木口小平であることがわかった」というと、このお話が事実であり誰かが確認したことになる。
いったい事実はどのようなものだったのか。少なくとも、名前を変える経緯があったはずだから調べれば何かわかってくるかもしれない。そんなことで、木口小平をキーワードにして日清戦争を調べてみた。防衛省防衛研究所が所有している当時の極秘資料である戦闘詳報などが公開されているからかなりのことがわかる。結果的には白神源次郎は喇叭を持っていなかったし、溺死で美談の主に適当でなかったから木口小平に切り替えることにしたと言うことだが、成歓の戦いが実際にどのようなものであったかが大体わかってきた。喇叭手美談については前に書いたから、ここでは成歓の闘いに焦点をあてて事実を探求してみよう。
日清戦争は1894年8月1日に始まり、翌年4月17日に終わった日本と清国の戦争である。明治維新で中国、朝鮮より一足早く近代化を成し遂げた日本は、早速西洋国家の後追いで対外進出を始めた。明治維新早々に征韓論というのがあって、朝鮮に攻め込むことが議論されたが、結局は政府内部でまとまらず、逆に国内で分裂して、西南戦争を始めてしまった。それがこんどは「朝鮮の独立を守るために清国と戦う」などと言うことになった。宣戦布告文の草案が何種類かあって其の中には「清国及び朝鮮国に対して宣戦を布告する」なんてのもあるくらいだから実にいい加減な理由付けだ。
そのころ朝鮮では東学党の農民一揆があちこちに起こり政情不安であった。朝鮮は清国に援助を求めた。清国は朝鮮の「宗主国」を自認しており朝鮮に問題が起これば軍が駆けつける安保条約のようなもので結ばれていた。ところがこの状況に対して、清国軍では日本人の安全は守れないとして、(例によって)在留邦人の保護という理由をつけて日本も清国を上回る大軍を朝鮮に派遣してしまった。広島にあった第5師団に大島義昌が率いる混成旅団が編成され、これに広島11連隊と岡山21連隊が属した。木口小平も白神源次郎も21連隊の兵卒である。
広島は、山陽鉄道が開通して広島までの鉄道が使える様になったので、兵器・兵員の集中拠点として大変都合がよかった。広島から宇品港を出て朝鮮半島に出撃することも出来る。日本軍は在留日本人が多い仁川に上陸したのだがそのまま京城まで行ってしまった。朝鮮王宮に押し入り、朝鮮軍を武装解除して国王を捕虜にしたのだからこれは日朝戦争と言っても良いが、抵抗が少なかったので華々しい戦闘にはならなかった。それでも1等卒早山岩吉が戦死しているし韓国側にも戦死者が出ている。捕虜にした国王に「清国軍を追っ払って欲しい」と言わせて、これで清国に対する宣戦布告の理由が出来た。宣戦布告文案からは「及び朝鮮国」が抜けた。
大義名分が出来たのが7月23日、7月25日には清国が日本に対抗して増援兵を送るために英国からチャーターした輸送船を襲っていきなり千人以上を殺してしまった。日本軍は真珠湾でもそうっだったが、不意打ちを食らわすのが得意の戦術で、思いっきりひっぱたいておいてから、「喧嘩だ。さあかかってこい。」と叫ぶのである。豊島沖海戦と呼ばれる輸送船襲撃事件は、まだ宣戦布告も出していない時点だから実に乱暴な話だといえる。沈む輸送船から投げ出された千名の清国兵を助けず皆殺しにしてまったのは残虐行為だが、当時のいい加減な国際法には違反していないそうだ。
清国軍は京城に攻め込むというようなあつかましいことは出来ずに京城のかなり南にある牙山を本拠に農民一揆の討伐を行っていた。増援軍は皆殺しにしてしまったから、当面は数的にも日本軍が有利である。早期の開戦が望ましい。日本としてはまず牙山の清国軍を叩こうと言うことで混成旅団が南下した。23日の王宮占拠から25日の豊島沖海戦、29日の成歓の戦いまでの実に素早い動きは充分に計算された計画に基づくものであったことがうかがい知れる。
素早い動きが出来た理由の一つは、もうひとつの日本の得意技、「補給をしない」と言うことである。太平洋戦争では補給のことをよく考えていなかったために負けたようなことを言うが、実際はよく考えた上で補給はしないことにしたのである。大島旅団からの補給の要請に対して、答えた大本営の6月29日の訓令はそれを明確に述べている。補給隊を送れば、その補給隊の食料まで送らなくてはならなくなり、きりが無い、戦争と言うのは補給無しで身軽にして始めて戦えるものだ。補給の要請なんてとんでもない。もうこれからはこんなことを言って来るな。そんな事をあからさまに書いている。というわけで、食料や馬は原則現地調達つまり略奪でやることになった。確かに理屈は通っている。登山隊のことを考えれば、ほとんどの人員はベースキャンプから第一、第二キャンプへの補給隊になっている。山頂へのアタック2人に対して50人からの登山隊を組織する。まともに補給すれば50人中2人しか戦わないことになるのだ。逆に言えば古来、遠征軍とか侵略軍とかは全て略奪でやって来たということだ。日本軍はこれを徴発と言っているが、徴発とは強制的に入手することで値段は買い手が勝手に決める。値段をゼロにすれば強盗である。
補給を徴発でまかなうと言うのも実は楽ではない。それはそうだ。だれだって略奪されるのは好きではない。当然、現地の人は軍隊を見れば逃げ出すし、食物は隠す。馬なんかを取られたら農耕も出来なくなるから大変だ。徴発された人足は当然隙を見て逃げ出す。木口小平も白神源次郎も、第3大隊に入っており、隊長は古志正綱少佐であった。生真面目な人で上層部の信用も厚かったので、旅団が苦労して略奪した50頭ばかりの馬と人足をこの第3大隊で預かっていた。ところが牙山に向かって進軍し始めて3日目の夜、この馬と人足に荷物ごと逃げられてしまった。そのため混成旅団は食料不足に陥ってしまった。参謀長長岡外史に怒られた古志少佐は責任を感じて自殺してしまう。これが日本軍戦死の実質二人目であるがもちろん公式には戦死とはなっていない。木口たちは大隊長不在のまま戦場に赴くのである。この混乱が第三大隊の兵士たちに無残な死に方が生れた遠因とも考えられる。
混成旅団の戦闘詳報によれば、7月28日は素砂場で野営し、7月29日早朝2時に牙山に向けて出発した。宣戦布告はまだだが、情況はもう開戦したも同じで、清国兵はおそらく牙山の手前に進出して来ていて明け方に成歓あたりで衝突することが予想された。連日雨が降り続いていたので、道は糠り、闇夜の行軍である。安城渡で河を渡り、ここから成歓までは田圃の中の細い一本道となる。いくらなんでも敵が山峡の要害で待ち受ける成歓まで、この細い道を縦列になって歩いて行く手はない。旅団は二手に分かれ、主力左翼隊は山伝いに東に迂回して成歓の東から攻撃する。右翼隊は陽動作戦でそのまま街道を進んで成歓の西に出るということになった。白神たちの第3大隊は右翼隊で、先頭は松崎直臣大尉が率いる第12中隊。後に続くのが10中隊と9中隊、第7中隊で、工兵中隊や衛生隊が後尾になった。おそらく木口は第12中隊、白神は第9中隊にいたと思われる。報告に出てくるのは将校ばかりで兵卒については所属すらなかなか明らかにできない。
20分ほど歩いて秋八里の手前600mの所まで来た。「キリン洞」と書いているが「佳龍里(キョロン)」だろう。雲の切れ目に弦月が出てうっすらと物が見えるようになった。前方30メートルのところに家が何軒かあり、そこに清国軍の「師」旗が2本見えた。と思ったら急に家の蔭から射撃が始まった。猛烈な射撃でおそらく400人からの軍勢だと判断したと報告しているが、戦闘詳報は必ず敵を多く報告するものだ。小屋の後ろに隠れるくらいだから実際には200人くらいだっただろう。清国軍の突然の射撃に反撃する形で戦闘が始まったとしている。木口小平はおそらくこの一斉射撃で死んだのではなかろうか。喇叭を吹く余裕はなかった。中隊長の松崎大尉もこの時死んだだろう。松崎大尉は日清戦争の戦死第一号ということもあって、その戦死は美化されて大々的に語られている。突撃してサーベルで切りまくったことになっているが、それではこの突然の一斉射撃とつじつまがあわない。戦死第一号はこの200丁以上の銃による30mの至近距離からの一斉射撃によるものと考えるしかないからだ。
第12中隊は道路から田圃に飛び降りて左側散開して伏せた。後続の中隊もそれぞれに田圃の中に入って泥まみれで散開して前方の家屋に向かって射撃しながら突撃の体制を準備した。第7中隊と第10中隊の一部は右側に回って射撃した。3時45分、突撃命令で600人が一斉に襲い掛かった。このとき進軍喇叭が鳴り響いたことは従軍した新聞記者が記録している。部隊が突撃すると清国軍はかなわぬと見て背走した。暗くて敵味方入り混じった状態では追い討ちの射撃も充分には出来なかった。一応は敵を追い払ったのだから日本軍の勝利ではある。しかし、清国側の記録では、逃げる日本軍を水構に追い落して打撃を与えて、さっと引き揚げたと言うことになっている。
この「水構に追い落として」と言うところは日本側の記録にも出てくる。21連隊の戦闘詳報にも時山中尉以下24人が溺死した書いてあるが詳しい情況は書いてない。いくつかの通俗本ではもう少し詳しく説明してある。当日は闇夜であり、泥まみれで突撃の際、増水した田圃は渕との区別がつかなかった。第7中隊の時山少尉は第7中隊と第10中隊の1分隊づつ計23人を率いて右翼側から突撃する命令を受けたが、そこは運悪く渕になっており、深みにはまって全員が沈んでしまったと言う。重い装備を背負って、泥沼に踏み込んでしまったのだから泳ぎ様も無い。当初の報告では時山中尉は行方不明で、溺死の事実は隠されていたが、正式な報告でははっきりと溺死と記述している。これには、敵の死体を数えたら将校1と兵卒20でしかなかったことがからんでいる。この日の日本軍の損害は合計35名だから溺死の24名を除外しないと清国軍より大きな損害となる。結局、佳龍里で戦死は将校1兵卒5で日本軍の勝利が正式報告と言うことになった。激戦と言われるにしてはあまりにも少ない損害と驚かざるを得ない。
通俗本の溺死状況をはじめ、よく言われている成歓戦の様子は疑わしいところがかなりある。「時山中尉が第7中隊と第10中隊の2分隊を率いて」と言うのも実に妙だ。時山中尉は第3大隊第7中隊の第1小隊長で、配下に5分隊70名ばかりを指揮しているのである。戦闘のさなかに自分の小隊の1分隊だけと全く別の大隊の1分隊を率いて行動するわけが無いだろう。戦闘詳報にある「第7中隊の1分隊と第10中隊の1分隊を右翼に増強し」を勝手に時山中尉に結びつけたものだろう。屍体検案書が残っている溺死者は2人だけだが二人とも第9中隊だ。一方、野戦病院の記録からは第12中隊3人第10中隊3人第7中隊1人がこの日全体の戦死者になっている。第9中隊は戦死の記録がなく、死亡15名だからほぼ全員が溺死である。結局、時山中尉とあと7人の第7中隊員と第9中隊の15人が溺死したことになるが、これは別段時山中尉に率いられての特別の行動ではないだろう。白神源次郎は第9中隊だから溺死したものの1人と考えられる。
ではどのようにして溺死することになったのだろうか。軍の記録以外にも一次資料はあって、大阪毎日新聞の高木利太、東京日日新聞の黒田甲子郎がこの日従軍している。二人とも進軍喇叭の響きを文章に伝えているが、喇叭手のことについては何も触れていない。これからも喇叭手美談が現場で生まれたものではなく、内地で作られたものであることがわかる。注目されるのは黒田甲子郎の記事で「一部は少く背進し瀦水中に陥りたる兵士十数名は最も憐なる態にて退き来るを以ってここは畢竟枝隊の敗戦と見受けられたり」とあるから、戦闘詳報には一言も書いてないが、日本軍が一時的にせよ「背進」つまり逃げたことは確かだろう。清国側の記録の通り、逃げる時に水溝に落ちたのかあるいは、攻撃の時に落ちたのかのどちらかだろう。
水死体を実況見分した報告書によれば17体を発見した場所は安城川の支流につながる水構で、佳龍里からは北に400mほども離れている。だから、「突撃」で落ちるには少し遠すぎる場所だ。行軍隊列が長くなって、戦闘が始まった時点では9中隊7中隊はまだ川を越えずにいたとも考えられるが、工兵隊、衛生隊が渡河して川堤に布陣したのだから、これらの中隊はもっと前進位置になければならないし、実際10中隊7中隊の分隊は右翼へ回って射撃している。つまり、ここの地形としては退却する以外に水構に落ちることは出来ないのである。
さらなる疑問は緒戦の部分にもある。清国軍は堂々と「師」の旗2本を掲げているのだから「伏兵」はないだろう。そもそも、佳龍里の集落は成歓街道からは100mも離れている。ただまっすぐ行軍していたのでは30mの距離には近づけない。清国軍は単に野営していたのではないか。まだ宣戦布告前で開戦はしていないし、真夜中の三時だ。「師」の旗2本を見て、日本軍はこっそり近づいて寝込みを襲おうとしたのではないだろうか。街道からはずれ30mまで近づいたところで清国軍は日本軍の襲来に気づき、あわてて撃ってきた。こう考えないと30mの至近距離から待ち伏せしていた400名が一斉射撃したことになり、先鋒の12中隊で戦死者が僅かに4名しかいないのは説明がつかない。
計画的な一斉射撃ではなかったがかなり猛烈な射撃と思われたので、日本軍も慌てて一旦は逃げた。なにしろこれまで一度も本格的な戦闘を経験したことのない兵隊たちだ。先頭部隊である12中隊が攻撃を受け、続く10中隊も浮き足立った。まだ川堤から遠くないところにいた7中隊、9中隊は、慌ててばらばらに逃げようとして一部が転落した。これが9中隊7中隊にまたがって溺死者が出た理由だ。しかし、清国軍は追ってこなかったし、日本軍の軍勢は倍以上あり、優勢なので体制を整えて反撃することにした。日本軍が再び前進すると清国軍は撤退していった。...というのが本当のところではなかろうか。突撃したと言う日本軍の本隊では戦死者が殆ど出ていない。最初の射撃戦以外に清国軍の攻撃はあまりなかったとすると12中隊の戦死者4名はやはり最初の射撃の時のものに限られる。攻撃を受けた第12中隊第1分隊の木口小平は、弾丸が心臓を貫く即死で、進軍喇叭を吹く前に死んだ。進軍喇叭を吹いたのは12中隊にいたあと二人の喇叭手北田文太郎か奥津友太郎だと言うことになる。
木口小平の真実
岡山から伯備線で一時間、備中高梁に行くと木口小平の記念碑がある。知らない人も多いだろうが、年配の老人は必ず知っている有名人だ。戦時中、むりやりにでも覚えさせられた名前で、最近また有名にしようという動きもある。「つくる会」のアナクロ教科書が戦前復帰で木口小平を復活させた。ところがその記述を見てみると、「死んでもラッパを手から離さなかったとして、その当時、有名になった。」となっている。「手から離さなかった」だけなら単なる死後硬直でしかない。ラッパを"口からはなさずに"死んだと言う職務遂行の執念がこの美談のポイントなのだから、とんでもない誤りと言える。
この教科書は内容が杜撰で初歩的な誤りが多いそうだが、自らが主張する重要部分ですらこの程度のいい加減さで作られているのには驚かされる。政治的主張だけがあって、子どもたちにまともに歴史を教えるつもりの全く無い教科書である。第三期国定教科書の「キグチコヘイハ、シンデモラッパヲクチカラハナシマセンデシタ」は、われわれ団塊世代でも親から何度も聞いて覚えているくらいだから、戦中世代にはよほど脳みその奧まで刷り込まれたフレーズだったはずだ。
実際にどのように扱われたのかを調べて見ると、ラッパ手の武勇伝は早くも日清戦争直後から教科書に出てくる。しかし、その名前は木口小平ではなくて白神源次郎となっている。尋常小学校修身教科書は「しらがみげんじろうは、いさましいらっぱそつでありました。げんじろうはてっぽうのたまにうたれても、いきがきれるまでらっぱをふいてゐました」と書いている。岡山県浅口郡水江村(現倉敷市)には明治二十九年に建立された記念碑もあり、日清戦争直後から大変有名になって、「姓は白神名は源次郎……」と言う歌も出来たことがわかる。だから「当時有名になった」のは木口小平ではなくて白神源次郎である。
日清戦争当時はまだ国定教科書と言う制度はなかったのだが、明治35年(1904年)に国定教科書が出来ると共に「アトデミタラ、コヘイハ、ラッパヲクチニアテタママデ、シンデヰマシタ」と名前が改められ、最終的には先出の「シンデモラッパヲ」のフレーズになったというのが事の次第だ。なぜ7年あまりも経ってから教科書の登場人物の名前が突然変わると言うことになったのだろうか。原因は広島の第五師団司令部にある。
明治政府が徴兵制を敷いて、これまで武士の専権行為であった戦争に庶民を駆り立てることとなった。初めての対外戦争である日清戦争では本当に百姓・町人の兵隊で戦意高揚できるのか非常に不安だったのである。そのためどうしても下級兵の戦争美談が必要になった。海軍では三浦虎次郎という18歳の三等水兵を「まだ沈まぬか定遠は….」の勇敢なる水平として歌い上げた。陸軍でも終始力強い進軍ラッパを吹いて全軍を励ましていたラッパ手が戦死したという話に飛びついて尾鰭をつけた英雄談を作り上げて発表した。つまり、戦争美談が先にあって名前はあとから当てはめたのである。このラッパ手はいったい誰なのかと広島第五師団を通して21連隊に問い合わせた所、戦死したラッパ手として白神源次郎の名が帰ってきた。この話ははたちまち有名になり、新聞報道され、錦絵になり、歌も出来た。白神源次郎は庶民の英雄となり、国民の戦意は高揚し広報作戦は大成功だった。
白神源次郎がどのような人物であったかというと、元は高瀬舟の積越人足であったが、徴兵されて岡山21連隊でラッパ手となった。分隊ラッパ卒というのは戦闘部隊ではあるが実際に武器を持って戦うわけではないので兵隊の中でも軽く扱われ、二等兵が当てられる。兵役中白神の力強いラッパはかなり評判が高かった。21連隊のラッパ手と言えば白神の名前が出てくる存在であった。どうせ誰も戦死の現場でラッパの位置を確認したわけでもないので、21連隊の戦死したラッパ手として問い合わせがあれば、白神の名前が返ってきたのも当然であろう。白神源次郎は徴兵され訓練を受けただけで満期除隊したのだが、日清戦争が始まり再び予備役召集を受けた。このとき27歳で1等卒であるからもはやラッパ手ではない。白神は戦闘員として戦死したものの一人だ。
白神は成歓の戦で戦死したがラッパ手ではなかったと言うことは直後から言われていた。陸軍としてはもともと誰でも良かったのだから、白神の名でどんどん宣伝した。しかし、戦争が終わって公式戦史をまとめる段になって困ったことが起きてしまった。広島第五師団の大島旅団が仁川に上陸して最初の戦闘である成歓の戦では、前日から続く雨のため道は水田と区別がつかぬほど水にあふれて行軍が難航した。佳龍里 で待ち伏せしていた清国兵の小屋からの狙撃で戦闘が始まり、結局清国軍を蹴散らしたのだが、夜間で視界が遮られ、運悪く水溝に落ちて23名が溺死してしまった。白神もその中にいたのである。溺死ではラッパの吹きようがないではないか。
戦闘中のことだから溺死であれ弾丸死であれ名誉の戦死で良さそうなものだが、そうも行かない事情があった。佳龍里で戦死した敵兵は将校1、兵卒20でしかない。35名が死んだ日本軍は溺死した23人を戦闘外としないことには、初めての本格的戦闘で負けたことになる。清国軍が巧妙な待ち伏せで打撃を与えてさっと引き揚げたと言うのでは困るのだ。実際、清国側の戦闘記録ではそのような記述になっている。23人の溺死は、当初の戦闘詳報では隠していたが、結局公表することにした。このため白神源次郎の扱いも変えなくてはいけなくなってしまった。
日清戦争における兵卒の扱いはひどいもので、どの戦闘詳報を見ても兵卒の名前は出てこない。防衛省防衛研究所は当時の手書きの戦闘詳報を保持していて、今では○秘資料も公開されているが、将校については戦死の情況などが書かれていても、兵卒は単なる数でしかない。もちろん、ラッパ手の記述はどこにもない。白神源次郎の話は「日清戦争軍人名誉忠死列伝」(尚古堂,明27)にも出てくるし、通俗本にもなっているのだが、著者も資料がなくて書きようがなかったのだろう、中身は隊長松崎大尉や大島旅団長のことばかりになってしまっている。もともと何も書いてないのだから戦闘詳報で名前を取り違えたなどということでも、もちろんない。
さすがに、8月15日になって旅団から正式に出した戦死者名簿には兵士全員の名前が載っている。第五師団は同じ日に戦死したラッパ卒木口小平の名を見つけ出して、「諸調査の結果、かの喇叭手は白神にあらずして木口小平なること判明せり」と一年後に発表し直すことになったのである。そこで今まで誰も知らなかった木口小平の名前が急に出てきた。白神は溺死だが木口の方は確かに弾に当たって死んでいる。屍体検案書もあって、「左胸乳腺の内方より心臓を貫き後方力に向かひ深く侵入せる創管を認む」だから即死で、息も絶え絶えに喇叭を吹きつづけたなどということはありえない事もわかる。
「日清戦争名誉戦死者人名録」(明治28年、金城書院)にも、白神など1000人ほどの名を網羅しているにもかかわらず、木口の名はないから、木口の戦死については全く噂にもならなかったようだ。一度発表して有名になってしまったものを誰も知らない二等卒に取り替えるのは容易ではない。7年後になって国定教科書を作る時点で書き換えを無理やり断行することになった。無論、後の小国民は最初から木口小平だったとして暗誦させられることになった。
戦死と言っても鉄砲玉に当たるばかりではない。成歓の戦では21連隊の戦死者35名のうち白神源次郎を含む23名が溺死だった。日清戦争全体でも日本軍の死者は13488人だが、本当の戦死はその一割にもみたない。11894人が戦病死で、コレラ5991人、赤痢1660人、チフス1326人になっている。台湾出兵での病死が大きい。日本軍はこの当時から一切補給を行わず、食料は略奪による現地調達を最初から決めこんでいた。せっかく略奪した馬に逃げられたと言うことで責められ、白神たちの大隊長古志少佐は戦闘の前に自殺している。これも指揮の乱れで溺死者を出した原因だろう。補給の無い戦場で下級兵卒の苦難はひどいものだっただろう。だからこそ、英雄木口小平が必要だったわけでもある。
「終始力強い進軍ラッパを吹いて全軍を励ましていたラッパ卒」と言う意味では実は白神も木口も当てはめようがない。日清戦争は1894年8月1日に宣戦布告であるから、二人が戦死した1894年7月29日の成歓の戦は公式には戦争が始まる前の小競り合いでしかない。しかも戦闘が始まるやいなや戦死してしまったのだから全軍を励ますどころではない。あえて当てはめるなら平壌戦まで戦って死んだ21連隊のラッパ手、船橋孫市と言うことになるだろうが、そのような訂正はなかった。戦争美談というのはこのようにいい加減なものではある。
この教科書は内容が杜撰で初歩的な誤りが多いそうだが、自らが主張する重要部分ですらこの程度のいい加減さで作られているのには驚かされる。政治的主張だけがあって、子どもたちにまともに歴史を教えるつもりの全く無い教科書である。第三期国定教科書の「キグチコヘイハ、シンデモラッパヲクチカラハナシマセンデシタ」は、われわれ団塊世代でも親から何度も聞いて覚えているくらいだから、戦中世代にはよほど脳みその奧まで刷り込まれたフレーズだったはずだ。
実際にどのように扱われたのかを調べて見ると、ラッパ手の武勇伝は早くも日清戦争直後から教科書に出てくる。しかし、その名前は木口小平ではなくて白神源次郎となっている。尋常小学校修身教科書は「しらがみげんじろうは、いさましいらっぱそつでありました。げんじろうはてっぽうのたまにうたれても、いきがきれるまでらっぱをふいてゐました」と書いている。岡山県浅口郡水江村(現倉敷市)には明治二十九年に建立された記念碑もあり、日清戦争直後から大変有名になって、「姓は白神名は源次郎……」と言う歌も出来たことがわかる。だから「当時有名になった」のは木口小平ではなくて白神源次郎である。
日清戦争当時はまだ国定教科書と言う制度はなかったのだが、明治35年(1904年)に国定教科書が出来ると共に「アトデミタラ、コヘイハ、ラッパヲクチニアテタママデ、シンデヰマシタ」と名前が改められ、最終的には先出の「シンデモラッパヲ」のフレーズになったというのが事の次第だ。なぜ7年あまりも経ってから教科書の登場人物の名前が突然変わると言うことになったのだろうか。原因は広島の第五師団司令部にある。
明治政府が徴兵制を敷いて、これまで武士の専権行為であった戦争に庶民を駆り立てることとなった。初めての対外戦争である日清戦争では本当に百姓・町人の兵隊で戦意高揚できるのか非常に不安だったのである。そのためどうしても下級兵の戦争美談が必要になった。海軍では三浦虎次郎という18歳の三等水兵を「まだ沈まぬか定遠は….」の勇敢なる水平として歌い上げた。陸軍でも終始力強い進軍ラッパを吹いて全軍を励ましていたラッパ手が戦死したという話に飛びついて尾鰭をつけた英雄談を作り上げて発表した。つまり、戦争美談が先にあって名前はあとから当てはめたのである。このラッパ手はいったい誰なのかと広島第五師団を通して21連隊に問い合わせた所、戦死したラッパ手として白神源次郎の名が帰ってきた。この話ははたちまち有名になり、新聞報道され、錦絵になり、歌も出来た。白神源次郎は庶民の英雄となり、国民の戦意は高揚し広報作戦は大成功だった。
白神源次郎がどのような人物であったかというと、元は高瀬舟の積越人足であったが、徴兵されて岡山21連隊でラッパ手となった。分隊ラッパ卒というのは戦闘部隊ではあるが実際に武器を持って戦うわけではないので兵隊の中でも軽く扱われ、二等兵が当てられる。兵役中白神の力強いラッパはかなり評判が高かった。21連隊のラッパ手と言えば白神の名前が出てくる存在であった。どうせ誰も戦死の現場でラッパの位置を確認したわけでもないので、21連隊の戦死したラッパ手として問い合わせがあれば、白神の名前が返ってきたのも当然であろう。白神源次郎は徴兵され訓練を受けただけで満期除隊したのだが、日清戦争が始まり再び予備役召集を受けた。このとき27歳で1等卒であるからもはやラッパ手ではない。白神は戦闘員として戦死したものの一人だ。
白神は成歓の戦で戦死したがラッパ手ではなかったと言うことは直後から言われていた。陸軍としてはもともと誰でも良かったのだから、白神の名でどんどん宣伝した。しかし、戦争が終わって公式戦史をまとめる段になって困ったことが起きてしまった。広島第五師団の大島旅団が仁川に上陸して最初の戦闘である成歓の戦では、前日から続く雨のため道は水田と区別がつかぬほど水にあふれて行軍が難航した。佳龍里 で待ち伏せしていた清国兵の小屋からの狙撃で戦闘が始まり、結局清国軍を蹴散らしたのだが、夜間で視界が遮られ、運悪く水溝に落ちて23名が溺死してしまった。白神もその中にいたのである。溺死ではラッパの吹きようがないではないか。
戦闘中のことだから溺死であれ弾丸死であれ名誉の戦死で良さそうなものだが、そうも行かない事情があった。佳龍里で戦死した敵兵は将校1、兵卒20でしかない。35名が死んだ日本軍は溺死した23人を戦闘外としないことには、初めての本格的戦闘で負けたことになる。清国軍が巧妙な待ち伏せで打撃を与えてさっと引き揚げたと言うのでは困るのだ。実際、清国側の戦闘記録ではそのような記述になっている。23人の溺死は、当初の戦闘詳報では隠していたが、結局公表することにした。このため白神源次郎の扱いも変えなくてはいけなくなってしまった。
日清戦争における兵卒の扱いはひどいもので、どの戦闘詳報を見ても兵卒の名前は出てこない。防衛省防衛研究所は当時の手書きの戦闘詳報を保持していて、今では○秘資料も公開されているが、将校については戦死の情況などが書かれていても、兵卒は単なる数でしかない。もちろん、ラッパ手の記述はどこにもない。白神源次郎の話は「日清戦争軍人名誉忠死列伝」(尚古堂,明27)にも出てくるし、通俗本にもなっているのだが、著者も資料がなくて書きようがなかったのだろう、中身は隊長松崎大尉や大島旅団長のことばかりになってしまっている。もともと何も書いてないのだから戦闘詳報で名前を取り違えたなどということでも、もちろんない。
さすがに、8月15日になって旅団から正式に出した戦死者名簿には兵士全員の名前が載っている。第五師団は同じ日に戦死したラッパ卒木口小平の名を見つけ出して、「諸調査の結果、かの喇叭手は白神にあらずして木口小平なること判明せり」と一年後に発表し直すことになったのである。そこで今まで誰も知らなかった木口小平の名前が急に出てきた。白神は溺死だが木口の方は確かに弾に当たって死んでいる。屍体検案書もあって、「左胸乳腺の内方より心臓を貫き後方力に向かひ深く侵入せる創管を認む」だから即死で、息も絶え絶えに喇叭を吹きつづけたなどということはありえない事もわかる。
「日清戦争名誉戦死者人名録」(明治28年、金城書院)にも、白神など1000人ほどの名を網羅しているにもかかわらず、木口の名はないから、木口の戦死については全く噂にもならなかったようだ。一度発表して有名になってしまったものを誰も知らない二等卒に取り替えるのは容易ではない。7年後になって国定教科書を作る時点で書き換えを無理やり断行することになった。無論、後の小国民は最初から木口小平だったとして暗誦させられることになった。
戦死と言っても鉄砲玉に当たるばかりではない。成歓の戦では21連隊の戦死者35名のうち白神源次郎を含む23名が溺死だった。日清戦争全体でも日本軍の死者は13488人だが、本当の戦死はその一割にもみたない。11894人が戦病死で、コレラ5991人、赤痢1660人、チフス1326人になっている。台湾出兵での病死が大きい。日本軍はこの当時から一切補給を行わず、食料は略奪による現地調達を最初から決めこんでいた。せっかく略奪した馬に逃げられたと言うことで責められ、白神たちの大隊長古志少佐は戦闘の前に自殺している。これも指揮の乱れで溺死者を出した原因だろう。補給の無い戦場で下級兵卒の苦難はひどいものだっただろう。だからこそ、英雄木口小平が必要だったわけでもある。
「終始力強い進軍ラッパを吹いて全軍を励ましていたラッパ卒」と言う意味では実は白神も木口も当てはめようがない。日清戦争は1894年8月1日に宣戦布告であるから、二人が戦死した1894年7月29日の成歓の戦は公式には戦争が始まる前の小競り合いでしかない。しかも戦闘が始まるやいなや戦死してしまったのだから全軍を励ますどころではない。あえて当てはめるなら平壌戦まで戦って死んだ21連隊のラッパ手、船橋孫市と言うことになるだろうが、そのような訂正はなかった。戦争美談というのはこのようにいい加減なものではある。
下妻紀行
「下妻物語」と言うくだらない映画があったが、田舎町を題材にした映画として話題になった。これといって産業もなく、自治体の汚職事件を繰り返しながら、沈滞していく地方の町の典型である。町外れに砂沼サンビーチというプールとビアスパーク下妻という温泉施設がある。おそらく土建屋の画策した税金山分け行政の結果生まれたものだろう。今回はこのビアスパークに出かけた。
もちろん、平地に温泉の湧き出しがあるわけでなく、この地方によくある汲み上げ循環式温泉施設の一つだが、付属施設は他より整っている。ホテルや研修施設、野菜直売場、体験農園などが回りに広がり散策トレイルもある。レンタサイクルで廻ることも出来るが、まあ、ほとんど利用されていない。観光客の訪れは少なく、もっぱら地元の人々のためのスーパー銭湯と化している。
それはそれで、味があり、大広間休憩室にも湯船にも「だっぺ言葉」が飛交い、部外者にはまるで外国に来ているかのような、意味不明の言語空間が楽しめる。野菜直売は確かに安く、品揃えも悪くない。周辺農民はこんなところでも真面目な努力を積み上げていることがわかる。
入浴料は700円。スーパー銭湯より若干高いが、土日でも同じ値段だから、土日にはむしろ安いとも言える。湯質は単純泉の再加熱だから決して良いものではないが、それでも温泉であることに間違いはない。サウナとか野天風呂とか一応の温泉らしいものがそろっているだけでなく、ここでは「薬湯」をやっており、効能から言えば並みの温泉よりは確実なものがある。
入浴後には休憩室でも付属のレストランでも食事ができる。地ビールが飲めるのが最大の特徴となっているが、実はここでの食事はお勧めの味ではない。外に出れば素晴らしいレストランが近いのだ。にも関わらず、温泉客のほとんどが場内で食事を取るか、外食せずに家に帰る。このあたりが下妻の下妻たる所以だろう。
温泉施設に一番近いレストランは「PePe Rosso」。イタリアンレストランで外観も悪くない。中に入ると受付カウンターがあり、ワイン棚の並ぶ廊下を通って客室に通される本格的なレストランのしつらえだ。調度も、内装もかなり重厚で、広く落ち着いた雰囲気になっている。これは下妻センスでは全くあり得ない。温泉客が流れてこないはずだ。
店の雰囲気とは裏腹にパスタランチは1380円とお手ごろになっている。この値段を聞けば、だいたいスパゲッティにキャベツの小皿とコーヒーがついたものだと思ってしまうだろう。ところがどっこい、ここはまったく違う。最初にハーブ仕立てのサラダの皿が出てきたときに「おやっ?」と思うだろう。次にくるみパンが出てきてオリーブオイルで食す。そのあと前菜が出てくるのだ。この日は鯛のカルパッチョだった。うーん、これは只者ではない。海老を基調としたパスタは.......うまい!。さらにドルチェがとどめだ。自家製のドルチェが6種類も出てくる。本格的だ。最後のコーヒーも決して悪いものではない。
これで値段が1380円とは、あり得ないような話だが、事実だ。ここの他にもこの周辺にはいいレストランがいくつかありレバルは高い。にも関わらす、地元温泉組は温泉施設での天丼やトン汁を好み、決してこういったレストランには行かない。この店もせいぜいデートカップルで多少にぎわいを見せるくらいで、順番待ちの行列が出来たりはしないのである。
温泉につかり茨詭弁を聞き、そしてPepeRossoかWoodFarmでランチにする。それが対比を楽しむ下妻の旅を作りあげる秘訣だ。この対比から地方を支配する文化ということについての思索を巡らしてみるのも楽しい。
もちろん、平地に温泉の湧き出しがあるわけでなく、この地方によくある汲み上げ循環式温泉施設の一つだが、付属施設は他より整っている。ホテルや研修施設、野菜直売場、体験農園などが回りに広がり散策トレイルもある。レンタサイクルで廻ることも出来るが、まあ、ほとんど利用されていない。観光客の訪れは少なく、もっぱら地元の人々のためのスーパー銭湯と化している。
それはそれで、味があり、大広間休憩室にも湯船にも「だっぺ言葉」が飛交い、部外者にはまるで外国に来ているかのような、意味不明の言語空間が楽しめる。野菜直売は確かに安く、品揃えも悪くない。周辺農民はこんなところでも真面目な努力を積み上げていることがわかる。
入浴料は700円。スーパー銭湯より若干高いが、土日でも同じ値段だから、土日にはむしろ安いとも言える。湯質は単純泉の再加熱だから決して良いものではないが、それでも温泉であることに間違いはない。サウナとか野天風呂とか一応の温泉らしいものがそろっているだけでなく、ここでは「薬湯」をやっており、効能から言えば並みの温泉よりは確実なものがある。
入浴後には休憩室でも付属のレストランでも食事ができる。地ビールが飲めるのが最大の特徴となっているが、実はここでの食事はお勧めの味ではない。外に出れば素晴らしいレストランが近いのだ。にも関わらず、温泉客のほとんどが場内で食事を取るか、外食せずに家に帰る。このあたりが下妻の下妻たる所以だろう。
温泉施設に一番近いレストランは「PePe Rosso」。イタリアンレストランで外観も悪くない。中に入ると受付カウンターがあり、ワイン棚の並ぶ廊下を通って客室に通される本格的なレストランのしつらえだ。調度も、内装もかなり重厚で、広く落ち着いた雰囲気になっている。これは下妻センスでは全くあり得ない。温泉客が流れてこないはずだ。
店の雰囲気とは裏腹にパスタランチは1380円とお手ごろになっている。この値段を聞けば、だいたいスパゲッティにキャベツの小皿とコーヒーがついたものだと思ってしまうだろう。ところがどっこい、ここはまったく違う。最初にハーブ仕立てのサラダの皿が出てきたときに「おやっ?」と思うだろう。次にくるみパンが出てきてオリーブオイルで食す。そのあと前菜が出てくるのだ。この日は鯛のカルパッチョだった。うーん、これは只者ではない。海老を基調としたパスタは.......うまい!。さらにドルチェがとどめだ。自家製のドルチェが6種類も出てくる。本格的だ。最後のコーヒーも決して悪いものではない。
これで値段が1380円とは、あり得ないような話だが、事実だ。ここの他にもこの周辺にはいいレストランがいくつかありレバルは高い。にも関わらす、地元温泉組は温泉施設での天丼やトン汁を好み、決してこういったレストランには行かない。この店もせいぜいデートカップルで多少にぎわいを見せるくらいで、順番待ちの行列が出来たりはしないのである。
温泉につかり茨詭弁を聞き、そしてPepeRossoかWoodFarmでランチにする。それが対比を楽しむ下妻の旅を作りあげる秘訣だ。この対比から地方を支配する文化ということについての思索を巡らしてみるのも楽しい。
旅の英語
旅の英語
英語は外国語だから、当然日本語のように流暢に話せない。旅に英語のトラブルはつき物である。
テキサスからルイジアナへ車で移動していた時のことだ。仕事の都合でスーツを着て、日差しが強いのでサングラスをかけていた。今思えば、南部では普通のいでたちではなかったようにも思う。多少、ブルースブラザーズ風だったかもしれない。殺風景な国道を走っていて、街道沿いに、いかにもローカルな休憩レストランを見つけた。看板に「Hot Biscuit」と書いてある。ビスケットといえば薄っぺらい小麦粉煎餅であり、お菓子だから、煮たり焼いたりするわけも無く、熱いも冷たいもないはずだ。昼食をここで取ることにして店に入り、興味津々でサラダ、スープと「Hot Biscuit」を注文した。
出てきたのは分厚い固めのカステラのようなパンだった。ケンタッキーフライドチキンが日本に上陸して、こういったビスケットも知られるようになったが、当時僕はそんなものを食べたことがなかった。怪訝に思い、ウエイトレスに「Is this called biscuit?」と尋ねてみた。注文間違いということもあり得た。目はにこやかだったはずだが、サングラスで表情はわからなかったかもしれない。
ウエイトレスは何か急に固まって、マネージャーを呼びに行ってしまった。やがて店の主が現れ、「手前共に何かそそうがありましたでしょうか」などと言い出した。「I just said, "Is this called biscuit?"」と言ったのだが、「お気に召さないということでしたら出しなおします」だとか、わけの解らないことになってしまった。
何度かやりとりをしてやっとわかった。相手は僕の言った事を「Is'n this cold buiscuit?」と聞き取ったのだ。ヤクザっぽい変ないでたちのサングラスの男が、熱々のはずのビスケットに対して、冷えてると、いちゃもんを付けて来たという場面になってしまったのだ。僕は大笑いしてしまったが向こうは大笑いの理由もわからなかった。日本のビスケットはクッキーであり、テキサスではビスケットと言えばこういったKFCのビスケットみたいなものが当たり前なのである。
アメリカは広いので南部と北部で随分と生活習慣が違う。南部では特有の訛りもある。あるとき宅配便を持って来た人に「ガタピン」と言われてまったくわからなかった事を覚えている。何度聞き直しても「ガタピン」なのだ。やっと話が通じて彼は「Got a pen? (書くもの持ってる?)」と聞いたのだ。eが完全に訛ってiになってしまっていたわけである。これだけで、こちらとしては全く聞き取れなくなる。
訛りがあったり、予期せぬ答え方であったりするから、特に旅をしていろと言葉がトラブルになる事が多い。道を聞いても返事がよく理解できない事はままあるだろう。聞き返すのにも限度があり、わからないままで終ることも多い。なかなか解るまで聞き返すなどということは出来ないものだ。
配偶者と2人旅の経験を積むうちに、2人組みで旅行している場合には良い方法があることがわかった。二手に分かれて聞くと言う方法だ。まず相棒が聞きに行き、半分解って帰って来る。その報告を聞いてから、そ知らぬ顔でまたこちらが聞きに行くのである。あらかじめ大体の様子がわかっていると随分と理解しやすい。この方法はかなりの成功を収めた。
言葉の苦労、これもまた旅の楽しみではある。確かに後で思い返して楽しい事の一つだ。
英語は外国語だから、当然日本語のように流暢に話せない。旅に英語のトラブルはつき物である。
テキサスからルイジアナへ車で移動していた時のことだ。仕事の都合でスーツを着て、日差しが強いのでサングラスをかけていた。今思えば、南部では普通のいでたちではなかったようにも思う。多少、ブルースブラザーズ風だったかもしれない。殺風景な国道を走っていて、街道沿いに、いかにもローカルな休憩レストランを見つけた。看板に「Hot Biscuit」と書いてある。ビスケットといえば薄っぺらい小麦粉煎餅であり、お菓子だから、煮たり焼いたりするわけも無く、熱いも冷たいもないはずだ。昼食をここで取ることにして店に入り、興味津々でサラダ、スープと「Hot Biscuit」を注文した。
出てきたのは分厚い固めのカステラのようなパンだった。ケンタッキーフライドチキンが日本に上陸して、こういったビスケットも知られるようになったが、当時僕はそんなものを食べたことがなかった。怪訝に思い、ウエイトレスに「Is this called biscuit?」と尋ねてみた。注文間違いということもあり得た。目はにこやかだったはずだが、サングラスで表情はわからなかったかもしれない。
ウエイトレスは何か急に固まって、マネージャーを呼びに行ってしまった。やがて店の主が現れ、「手前共に何かそそうがありましたでしょうか」などと言い出した。「I just said, "Is this called biscuit?"」と言ったのだが、「お気に召さないということでしたら出しなおします」だとか、わけの解らないことになってしまった。
何度かやりとりをしてやっとわかった。相手は僕の言った事を「Is'n this cold buiscuit?」と聞き取ったのだ。ヤクザっぽい変ないでたちのサングラスの男が、熱々のはずのビスケットに対して、冷えてると、いちゃもんを付けて来たという場面になってしまったのだ。僕は大笑いしてしまったが向こうは大笑いの理由もわからなかった。日本のビスケットはクッキーであり、テキサスではビスケットと言えばこういったKFCのビスケットみたいなものが当たり前なのである。
アメリカは広いので南部と北部で随分と生活習慣が違う。南部では特有の訛りもある。あるとき宅配便を持って来た人に「ガタピン」と言われてまったくわからなかった事を覚えている。何度聞き直しても「ガタピン」なのだ。やっと話が通じて彼は「Got a pen? (書くもの持ってる?)」と聞いたのだ。eが完全に訛ってiになってしまっていたわけである。これだけで、こちらとしては全く聞き取れなくなる。
訛りがあったり、予期せぬ答え方であったりするから、特に旅をしていろと言葉がトラブルになる事が多い。道を聞いても返事がよく理解できない事はままあるだろう。聞き返すのにも限度があり、わからないままで終ることも多い。なかなか解るまで聞き返すなどということは出来ないものだ。
配偶者と2人旅の経験を積むうちに、2人組みで旅行している場合には良い方法があることがわかった。二手に分かれて聞くと言う方法だ。まず相棒が聞きに行き、半分解って帰って来る。その報告を聞いてから、そ知らぬ顔でまたこちらが聞きに行くのである。あらかじめ大体の様子がわかっていると随分と理解しやすい。この方法はかなりの成功を収めた。
言葉の苦労、これもまた旅の楽しみではある。確かに後で思い返して楽しい事の一つだ。





